第12回「夢二展会場は警察会館だった」
★1933年’(昭和8)の今日(10月26日(投稿日))、夢二は基隆港に到着しました。
1933年(昭和8)11月3日、警察会館で「竹久夢二画伯滞欧作品展覧会」が開幕しました。開催場所は警察会館。南陽街沿いの交差点の角に建てられたタイル貼りの壁を持つ建物で、住所は台北市明石町1丁目3番地(現在は、台北市南陽街15號)。鉄道ホテル(現在の新光三越)からも台湾博物館(現在の国立台湾博物館)からも徒歩5分程度という、夢二にとってはとても交通至便な場所にありました。
警察会館については、日本統治時代の台湾の状況を説明しているブログ「林小昇之米克斯拼盤」の「2011年9月26日(月曜日) 警察会館」の欄に次のような要旨の詳細説明があります。(王文萱氏より情報提供、華語より機械翻訳の要約)
「警察会館は、宿泊施設、講堂、食堂、レクリエーションルームなどがあり、主に警察職員とその扶養家族の出張または休息に使用する施設を提供するもの。また、講義、芸術活動、映画やスピーチの集会場所としての機能もある。ここには警察会館長の住居も付属している。建物外壁は北投炉工業(株)の小口型タイルで、台湾総督府官房営修課の井手香、太田良三、宮川福松が設計・監修を担当し、主な工事は松永彦次郎が請け負い1929年7月26日に着工、1930年6月12日午後1時に上棟式が行われ、同年9月30日に完成した。 台湾警察協会は、1930年11月8日午後2時にグランドセレモニーを予定していたが、10月27日に「霧社事件」が発生し、警察ホールの完成式を中止せざるを得なかった。
2階の講堂では、商工団体への貸与や講演会が頻繁に開催され、日本の著名な建築学者である伊東忠太が、台湾建築会の招待で1936年8月10日に講演をしている。」
ここで行われた講演会の様子は写真にありますが、おそらく夢二の展覧会もここで行われたのではないかと思われます。
ただ、夢二の台湾訪問について記述のある「夢二 異国への旅」(袖井林次郎著、ミネルヴァ書房)にもあるとおり、当時は、「台湾の日本画壇は石川欽一郎の影響力が圧倒的に強く、夢二などはそれこそ『夢二是誰?』ということになりかねない」といった状況だったと思われることや、「そのような場所を借りるにはかなりの政治力が必要だが、一方、『私たち台湾人には行きにくい所でしたよ』と私と同じ世代の日本語をしゃべる台湾人画商が語ってくれた」ということから、夢二の知名度低下や警察会館という会場設定が、同時期の「台湾美術展覧会(台展)」の開催とともに、展覧会開催にとっては不利な環境であったことが伺われます。
また、夢二にとっても「警察」の文字はあまり好ましい名称ではなかったと思われますが、この時は、資金集めの意向が強かったこともあり、河瀬蘇北の集客力に頼ったということでしょうか。
なお、「警察会館」のあったビルの1、2階はドラッグストア、その他の1階はローカルな飲食店が連なっており、その他の場所は用途不明(未調査)です。写真の右側の一車線の道路が台北駅前から国立台湾博物館前へ続く南陽街で、これに沿って飲食店を中心にローカルな店舗、中小会社が連なっています。(つづく)
(注1)霧社事件:1930年10月27日、台湾の台中州霧社(現在は南投(なんとう)県仁愛(じんあい)郷)で起こった高山(こうざん)族の抗日蜂起(ほうき)事件。日本の植民地支配に対する原住民の不満が爆発したもので,モーナ・ルダオを指導者としてマヘボ社など6社約1500名が蜂起し日本人134名を殺害。台湾総督府は波及をおそれて飛行機・山砲等を動員、高山族1000余名を殺害して11月19日に鎮定した。台湾映画「セデック・バレ」(2011年、魏 徳聖(ウェイ・ダーション監督)に描かれている。
(注2)魏 徳聖(ウェイ・ダーション:台南に生まれる。遠東工専(現・遠東科技大学)電機科卒業後、1995年から1996年に海象監督の『海ほおずき The Breath』にスタッフとして参加。2008年に『海角七号 君想う、国境の南』を発表し台湾で史上歴代2位となる興行成績を収め、2014年には永瀬正敏主演の『KANO 1931海の向こうの甲子園』を製作した。日本統治時代に強い関心を持ち、日本関係の作品をいくつか発表している。
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