第10回「夢二の訪台、謎の5日間」

1933年(昭和8)10月26日に基隆港に到着した夢二は、宿泊場所の高級ホテル「鉄道ホテル」に到着しましたが、実は、その後11月1日に行われた東方文化協会の発会式までの5日間は何をしていたのか記録がありません。米欧の旅で頼りとなったメモも日記もスケッチもないので消息不明の状態です。

今回は、この消息不明の期間に夢二が何をやっていたか、想像をめぐらしてみることにします。とはいえ、全くの想像では意味がないので、2016年から2018年までの間に7回にわたり台湾に渡航して、夢二が行ったと記録されている場所を確認したり、古地図と照合したり、やれることはやってみました。
ある程度の情報が集まった時点で、2019年に夢二の足跡を訪ねるツアーを企画、夢二研究会の有志とともに訪台して現地調査を実施しました。幸いなことに、金沢湯涌夢二館の太田昌子館長の参加や、その前年まで日本に在住していた台湾人の会員の王文萱さんの協力により、相応の成果は得られましたが、課題も数多く残されました。

夢二の謎の5日間について常識的に考えれば、東方文化協会理事長である河瀬蘇北は、到着したら台湾総督府や警察関係者などの関係者への挨拶回りをしたことでしょう。あまり人づき合いを好まない夢二ですが、これに同行した可能性はあります。おそらく宴席もあったと思われます。夢二はさして興味はなかったでしょうが、蘇北の計画にはきちんと夢二の役割が仕組まれていたに違いありません。もっとも、どの程度夢二が快く参加したかはよくわかりませんが。

このほか、蘇北からの理事長命令で東方文化協会の職員が夢二のアテンドに着いた可能性も十分あります。当時は2年後の台湾博覧会に向かって大きな建物の建設などの市内整備が続々と行われており、活気に満ちていたでしょうから、当時の景勝地などに案内しなかったとはとても思えません。
視察先としては、総督府や台湾総督府博物館(現国立台湾博物館)、新公園(現228和平公園)、西門町(現在は台湾の渋谷といわれる繁華街)、台湾神社などが挙げられます。特に台湾総督府博物館は、1908年の台湾南北縦貫鉄道の開通を記念して開館し、1915年には「児玉総督および後藤民政長官記念博物館」の名称で新館を建設したもの。本土に帰る数日前に「台湾日日新報」に掲載されたエッセイにも後藤新平に言及した部分が見られ、しかも「鉄道ホテル」から徒歩10分もかからないのですから、ここには必ずや訪れたと思われます。

夢二が訪れた頃の台湾は、1929年に起こったアメリカでの株価大暴落をきっかけとした世界恐慌が日本にも波及し不況が深刻化してきていましたが、1930年(昭和5)には八田與一が烏山頭ダムを完成、翌年には嘉儀農業高校(KANO)が甲子園で準優勝になるなどの活性事象が見られるほか、前述のとおり、1935年(昭和10)には、台湾統治開始以来40年目の「始政40周年記念行事」である「台湾博覧会」が予定されていたこともあり、市中はお祭りムードが高まってきているような状況であったと思われます。現にこの時期は基隆税関合同庁舎の竣工直前であり、夢二は入港の際、改装中のふ頭にそびえたつその姿を目にしていたはずです。

しかし、夢二の行動を考える上では、夢二がつきあいや観光ばかりしていたはずはありません。展覧会場となった警察会館では、絵が搬入され、展覧会の準備が業者によって進められていました。夢二がどの程度まで展示に関わったかはわかりませんが、展示場での仕事もしていたと思われます。
展覧会開催の際、夢二はもっぱら自ら展示作業に大きく関わっているので、全部お任せということをしなかったと思えるうえ、急な展覧会でかなり寄せ集めの作品となっていたこともあり、いろいろ考えることはあったと思います。
もっとも、藤島武二が追悼文で「(夢二は)非常に憂うつな顔をして居て、何故自分は台湾に来たのだろうと言って居た」と言っていることから、体調も良好だったとはいえないため、おそらく展示概要の指示と最後のチェックをした程度ではないかとも思われますが、夢二のことですから、ひょっとすると自分で積極的に展示作業をしていたかもしれません。何らかの資料が出てくるとよいのですが、いずれにしても、想像の範疇にあり、夢二は消息不明のままです。
次回は、11月1日に行われた東方文化協会台湾支部発会式の様子をご紹介します。(つづく)

台湾総督府博物館(現国立台湾博物館)
夢二が訪台した翌年の1934年(昭和9)に竣工した基隆税関合同庁舎
調査ツアー「夢二の見た台湾」(国立台湾大学)(2019年10月)

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