第13回「竹久夢二画伯滞欧作品展覧会」
1933年(昭和8)11月3日、台湾初の夢二展覧会が警察会館で始まりました。名称は、「台湾日日新報」では「竹久夢二画伯滞欧作品展覧会」と銘打っていますが、夢二の作った案内書は「竹久夢二作品展覧会」となっています。夢二のつける展覧会のタイトルは、その時々で微妙に異なっており、敢えてそうしているのかもしれませんが、混乱して間違えている著述も時折見受けられます。
この展覧会の開会式が行われたという資料は見当たりませんが、展覧会を提案した東方文化協会会長の河瀬蘇北の力もあり、警察はもちろんのこと、台湾総督府関係者には十分な周知が行われていたと思われるので、それなりの来場者があったことと思われますが、開催場所が警察の厚生施設とあって、一般人が通りがかりに入るような雰囲気ではなかったようです。当然、売り上げは夢二の期待どおりにはいかなかったようだと藤島武二も述懐しています。
「竹久夢二画伯滞欧作品展覧会」の出品作品数は54点といわれています。滞欧作品『海浜』『女』『旅人』等の他、枕屏風『春夢幻想』『榛名山秋色』の近作、さらに有島生馬との合作で四尺二枚折屏風『舞姫』があったとのことですが、米欧の旅から帰国して1か月後の夢二がその間に多くの作品を用意することは難しく、少年山荘にあったものなどいろいろ集め、ひょっとしたら船中で描いたものもあるかもしれません。
夢二は絵を描くのが相当早かったと言われています。このことについては、長男の虹之助が、夢二の没後『書物展望』(1934年)に次のように書いていることでも分かります。文壇への道を進まないと決めた後の夢二の壮絶な努力でその技能が身についたようです。
(前略)
父は時の文展に出品したい意向だったが、岡田三郎助先生に「君の絵は、展覧会などに出して君の味を無くすより、自分で開拓すべきだ、自力でやる事は苦しい事や辛いこともあるだろうが、まあ会へなど出品するのはやめた方がいい」と言われた。
それから後の父の勉強ぶりと言うものは、到底私共の想像も出来ない、まったく死に物狂いの勉強ぶりであった。今整理中のスケッチブックを見ても分るが、どのノートを見ても、どれだけ熱心に描いたかがわかる、ノートは大きな茶箱にぎっしり二個に入れてあるが、まだ自分で作った帖面に、紙片(かみき)れに幾千枚、幾千枚と言っても決して過言でない事実である。このようにして努力に努力を続けて、あの所謂(いわゆる)「夢二式」の絵が生まれた訳である。
その種類は、支那・日本古代・錦絵・平安・元禄と実に整然と描かれてある。またそのノートのあき間には無数の歌・小唄・小説の中に出る言葉・随筆など、雑誌を買って帰りの車の中ですでにもう何か描いているのである。(後略)
開会中の夢二が写っている写真を掲載した「台湾日日新報」があります。きれいに写っていないので表情はぼんやりした感じですが、めったに笑わないので有名な夢二は、やはりいつものとおり笑っていません。展示物も少し見えますが、残念ながらはっきりしません。
2022年から翌年にかけて、台湾の日本文化発信拠点となっている北投文物館で台湾初の夢二展を開催した夢二研究会会員の王文萱氏(国立台湾師範大学講師)が、90年前に作られた「作品目録」を同氏の著書で紹介しています。この目録は日本にもあり、2023年7月に東京古書会館で開催された第57回「明治古典会七夕古書大入札会」でも出品されていました。実際に手にしてみたところ、想像していたより薄いペラペラの紙に粗く印刷されたものであることが確認できました。これにより、この展覧会は多額の資金をかけて大々的に行われたものではなく、現在よく市役所などで行われているものに似た規模であったことがうかがわれます。
また、同時期に行われた「台湾美術展覧会」は、藤島武二、結城素明、梅原龍三郎等の画家が訪台するなど、相当の規模で行われたものと思われますが、これと鉢合わせになった夢二は不運だったとしか言えないでしょう。
(つづく)
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