第4回「夢二を台湾に誘った男ー河瀬蘇北」
夢二を台湾に誘った人物―河瀬蘇北(本名龍雄)は「東方文化協会」の理事長で、大正から昭和初めにかけて十数冊の著書のあるアジア政策の研究家。夢二の帰国を待っていたかのように、「台湾支部の開設記念にで講演会と展覧会からなる記念事業を行いたい」と申し入れてきたのです。
実は、夢二は蘇北とは初対面ではありませんでした。1931年(昭和6)3月、夢二はアメリカに発つ直前に河瀬蘇北の著書「新満蒙論」(第一出版社)の装幀を行っていたのです。蘇北は夢二が洋行から戻ったことを知ってちょうど良い機会だ、知らない仲でもないし、ということで記念行事への参加を勧めたのでしょう。距離的に近い上、当時は日本統治領の台湾での個展ということで、海外旅行疲れしていた夢二も気安く“暖かい所で静養する”程度の気分で承諾したと思われます。しかし、何といっても、個展の収入で気になっていた借金を返すあてが出来たという点が最も魅力だったと思われます。
ところで、夢二が装幀したという「新満蒙論」ですが、冒頭の「序にかへて」を読んでみると、蘇北は夢二と気の合いそうな部分が見えてきます。ただ装幀をした、というだけではなく、夢二と似たような考えの持ち主でもあったのかもしれません。(夢二がこの本をきちんと読んだかどうかというところには疑問が残りますが。)
夢二が帰り際に本土に向かう船に乗り遅れ、次の便を待っている間に書いたエッセイ「台湾の印象」(「台湾日日新報」)には、蘇北が書いていることとかなり似ている部分があるのですが、それは後段に譲ることとします。
ちなみに、この河瀬蘇北、「いちばん得意なのは中国論で、『満州及支那辭典』は近年復刻されている(日本図書センター、2003年。ただし書名は『中国問題資料事典第1巻』)。その際、出版社が履歴を懸命に調べたがわからなかったという。人事興信録や著作権台帳にもない。出生地と没年さえわからない。」(「夢二 異国への旅」袖井林二郎著、2012年)ということで、夢二は実に不思議な人物と袖振り合ったものです。
いずれにしても、このような状況で、1933年(昭和8)10月23日、夢二は蘇北とともに「大和丸」の船上の人となり、横浜港から基隆港に向けて出発することになりました。 (つづく)
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