凋叶棕のCDの考察

凋叶棕のCDについての私なりの考察

凋叶棕のいくつかのCD、曲は、おそらくは僕達が生きていく現世界の中でよくある風景を
東方の幻想少女たちを依代にして一つの物語として描写しています。
幻想少女たちを依代にしていますが、CDで通して「主人公」がいると考えます。

東方茨歌仙で、茨木華扇は鬼として始めは生きていました。しかし、渡辺綱に鬼の部分を右腕として切り取られ仙道を歩みはじめました。切り取られた右腕は加工され見世物にされています。そして、右腕を箱に封印し、時に封印した箱を見ることで対極の道である仙道を歩むこととしています。

あの政治家田中角栄の言葉に次のようなものがあります。
「ひとかどの作家になるのは、 ある意味、錯乱、狂気の人だ。 地獄の底までのぞいて、 人の世の裏表、 人間の素晴らしさ、 おぞましさを 見て体験しなければ 人が感動するような 後世に残るものは書けない。」

人間誰しも狂気を抱えています。特に、私はこう有りたい、周りにこう思ってほしいなどという感情とそれ故の行動です。またの名を承認欲求。うまく世の中と噛み合っていれば新しい物事を作る原動力となりますが、噛み合わなければ無駄に自分を苦しめる感情です。

気づく人間はどこかでその自らの狂気に気づきます。それが「おとなになる」ということなのかもしれません。
私は凋叶棕さんは相当地獄の底まで見てる気がします。だからあれだけの光と影のある作品群を作れているのではないかと考えます。

「よくある光景」の中、いざ生きている当人にとっては天国であることもあり地獄であることもあるでしょう。

だから、ここに記して公開すれば、ここに来て、気づいた人が考えを整理し、
良き道を歩む手助けになるかと考えます。
筆者が気づいたのは少しですが、ひょっとしたら他のCDにも現実風景の描写としての物語があるかもしれません。
気づいたら他のCD、曲についても書き足していこうかと思います。

あくまで一考察です。他の解釈もあるかもしれませんが、僕の解釈です。
それではどうぞ。


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