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ここにまた生まれてこよう

佐伯裕子さんの『感傷生活』から、

ここにまた生まれてこようこころまで吹かれて髪が頬を打つ春

感激しました。
感激して昨日はあんまり眠れなかった…。

なんと凛々しく瑞々しい歌だろうと思いました。

凛々しくというのも上手く当てはまらないんですが、、、適切な言葉が上手く見つからない。「率直」だと機械的にすぎる、「情熱的」だと熱い感じがする、熱いわけじゃなくてもっとキラキラしたものが溢れ出るようなイメージ、ストレートでもない、ストレートは直接的という平行なイメージ、情感が後から後から溢れ続ける湧き立つ泉のようなイメージ、passionの方が意味するもの方が大きいから便利なんだけど、もう少し適切な日本語が見つかればいいのだが…。

溢れ出る系の、泉を連想させる歌が好きなのだな。。
百人一首だと、以下の二つとか好き。

陽成院
   筑波嶺のみねより落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる

中納言兼輔
   みかの原わきて流るるいづみ川いつ見きとてか恋しかるらむ

でもどっちも「ぬる」「らむ」で終わってるので、なんというか最後がきちんと収まるんだけど、この歌は「春」の"h"の音が抜け感というか、音の広がりを生んでて、希望が溢れる感じがしてとても好き。


 でも、何よりも、一番最初の「ここにまた生まれてこよう」が好き。圧倒的に強い。

 みなさん今まで、「ここにまた生まれてこよう」って思ったことありますか?私はないです。ぼんやりと、「この春の日差しと湿っぽい空気のコンビネーション、いい」「夏の夕暮れのひぐらしとか最高だよね、今年も聞けてよかった」「冬の朝のしんとしてみんな足早に過ぎ去るのもをかし」みたいなことはほぼ毎日思っています。でもそうした日々の「好き」が、「ここにまた生まれてこよう」という言葉、そうした願い、意思になるほど結晶化されるということに感激して、これほど純粋で強い願いってあるだろうかと思うのです。

 この歌の「ここに」はおそらく、日本でしょう。日本という土地、文化、人に対して「ここ」と言っているのだと思います。奈良のいにしへの時代からたくさんの和歌が歌われてきて、中には阿倍仲麻呂のように唐の土地から京を想って歌った歌もあり、また、自国の文化を相対化する例として膨大な漢籍、天竺からの仏典などはあるのかもしれないです。今の時代まで、この土地の文化に対する愛がたくさん歌われてきて、全部含めての「ここに」ってのがエモすぎて涙がちょちょぎれます。

 また、諸行無常の中で変わらないものへの祈願のようなものも感じる一方で、この土地の精神は生き続ける、変わらないものがあると信じる気持ちのようなものも感じます。

 

 「こころまで吹かれて髪が頬を打つ春」。これもびっくりの表現です。こころまで吹かれて、ってどういう意味なんだろう、とても詩的、でもとてもとても素敵。春風がびゅっと吹いて、こころまで吹かれて、髪は頬を打っている。。。とても絵画的というか、描写的な表現に思います。

 「髪が頬を打つ」という表現から想起するのは、乙女の髪のイメージです。この表現が、詩全体に瑞々しさを与えている気がします。詳細な年代は分からないのですが、佐伯裕子さんの割と最近の歌なのではないかな?と思っています。すると、60-70代に成られてから書かれてるんですよね。乙女の時の気持ちが今になって言葉になったのか。。「頬を打つ」という硬い表現の中に、確固たる気持ち、凛とした願いを自覚する様子が感じられます。卑近な例ですけど笑、スポーツ漫画の主人公が、試合のハーフタイムが終わる直前に「頑張れ私!」と頬をパンパン叩いて出陣するイメージ笑。違うか笑!

 ちなみに和歌読んでて似たような感じでいつもこういう時系列とかで困るんですけど。。多分初歩的で恥ずかしいんですけど。。

 春風が吹く→髪が頬を打つ→心まで風が吹く、なのかな。「こころまで」は風が吹いてるのかな、きっと。春風がこころまで吹くってどういうことなのかな。冬が終わって、春が来て、春風が吹いて、こころにまで春風が吹いてきたって、どういう気持ちなのかな。春風が吹いて、「ここにまた生まれてこよう」という願いがこころに吹いてきた、ということなのかな?

 でも「吹か『れ』て」なんです、受身。心の中にまで風が吹いてきたというよりは、春風からこの願いをもらった、というような、春風という大いなるものに抱かれてるような感じ。そんな感じ。

 ふむ。本当に、果てしない愛を感じます。

ここにまた生まれてこようこころまで吹かれて髪が頬を打つ春

 好きすぎる。