病院で物語を書く
看護記録を書くということ
書くということは、仕事をする上で、かなり、大きな比重を占めています。
いわゆる、看護記録と呼ばれるものです。
記録は、
全ての五感をフル動員して、
フィルターにかけて、
必要なものや大切なことを書いていきます。
その人の、その時の、身体の状態だったり、過ごし方だったり…問題点を見つけて、どうやったら解決できるかとか、どう行動して、どういう結果になったかとか、そういう事も書きます。
事実として残るもの、消えるもの
カルテの中に書かれたことは、実際に起こっている状況であり、起こった事実として、記録に残ります。
裏を返せば、
記録がないと、そういう事があったと証明できないし、人の記憶は、日々の煩雑さの中に埋もれます。
その人にとっての、大事な一瞬だったかもしれない事が、
大切な人達や家族にも誰にも共有されず、忘却の霧の中に隠れてしまいます。
極端な話、書かなければ、起こっていないことと同じになるやもしれないのです。
いのちの記録
もっというと、
看護記録は、その人の生きた物語、いのちの記録とも言えます。
最初書いたような問題解決に目標を定めた記録ももちろん書きますが、
解決できない事への思いとか姿勢とか、
悶々としたものから腹落ちしたものまで、
今、この瞬間の場面を切り取って、記録にしておかねば!
と感じることが、実にたびたび起こってきます。
例えば、人生の最終段階で発せられる、生命のほとばしりのような言葉は、そのエネルギーごとそのまま書いて残しておくべきことではないかというのが、湧き上がってくる思いです。
身体の声、心の声をキャッチする
大切なことは、
膨大な出来事や現実の中から何に光を当てるのか?
何を書くか?
何故それが重要か?
で、一周回って、結局、いかに、五感を研ぎ澄ませるか?
いかに、フィルターをキレイにニュートラルにしておくか?
いかに、その一瞬の輝きや身体の声、心の声をキャッチできるか?
つまり、いかに、自分を整えておくかが、
自分の課題となっていて、
毎日、せっせと、身体、心、空間を整えている日々。
つまり、せっせと、自分のご機嫌伺いをしている訳です。
看護師役で舞台にあがる
そして、もう一つ、大切にしていることは、距離感。
友達でもなく、家族でもない立場の看護師がたまたま出会ったその人の、人生の舞台にあがる時には、あくまで、看護師としての役目を果たせる距離感が大切かと思っています。
土足厳禁!という感じ。
もちろん、ぐっと深く内側へと向かう観察の眼を持ってはいますが、離れて眺める視点も持って、境界線は意識したい
あくまで、看護師として、その人が主人公の舞台に上がらせてもらうのだという意識を忘れたくない
と感じます。
その上で、本音の関わり合いをしていくと、
軸と軸とが触れ合い、交差して、
不思議な化学反応が起き、
その人自体が主人公として輝く物語が生み出される気がします。
さて、
色々ある毎日ですが、
周りで起こっている事はさておき、
自分が自分の境界線をもちながら、自由で機嫌よくしていることが、
仕事、人間関係、家、環境、日常生活等々の地球ライフのみならず、
宇宙連合レベルでも、
求められているような、そんな気がしています。
頭の中でぼんやり考えていることを、言葉に変換して、記録しておこうという感じで、書きました。
「まじめか!」と自分突っ込みを入れながらの文章となりました。
読んで下さった皆様、恐縮です!そして、ありがとうございます。
これは、今月になって更新した、姉ブログです。
良かったら、読んでみてください。
就寝前、フワッと浮かんだ言葉を詩にしてみました。
「背中の声」という詩↓
これは、12月になって感じたバイブスを、書いてます↓
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