田舎に住むメリデメを考えてみた(後編) −「地方の果て」から愛を込めて
こんにちは、チバヒロユキです。
(前編 ―「真綿で絞められた」あの日)
「田舎で自然を楽しみながら、人生を充実させる」という、ささやかな希望を打ち砕かれ、半ば転がり込むようにして実家に出戻り早二年。
バイト先と予備校を(時折サボりながら)行き来する毎日を経て、どうにかこうにかウチの市では、「全う」と呼ばれる職場に拾われることになった。
我が地元は九州の中でも一二を争う地味な県庁所在地「大分市」
職業柄、というか「職種柄」というのか、福利厚生はそれなりに整い、過重残業に対しては想像以上に厳しい。
要するに、定時に帰れる職場が多い(無論例外はあるが。)
それなりに忙しいが、それなりに充実した毎日。
そして、問題なく、順調にキャリアを積んでいけば、ある程度の収入も約束されている。
安定は、やっぱり捨てがたい。
以前読んだツイートで、こんなものがある。
元ちとせさんが、本当にこんな発言をしたのかは、正直わからない。
ただこの言葉は、とてつもなく重いと感じた。
県庁所在地ならまだしも、いわゆる「地方」と呼ばれる所の現状は、ほぼほぼこんなもんだ。「地元に残ろう」にも、生計を立てる職場は、あまりにも少ない。
「地方創生」も、結局の所、死ぬほど虚しい。
「残らない」のではなく、「残れない」んだ。
近い将来「田舎」は、「確実に」消滅する
「消滅可能性都市」という言葉がある。
この概念は、2014年にはじめて指摘されたもので、「2010年から2040年にかけて、20 ~39歳の若年女性人口が 5 割以下に減少する市区町村」を具体的に、自治体名を上げて、指摘したものだ。
その中には、都心の大都市「池袋」を擁する「東京都豊島区」も書かれていて、「豊島区が消滅するとは何事だ!!!!」とちょっと揉めたりもした。
ただ個人的な感想としては、「いくらなんでも生ぬるい」
この一言に尽きる。
今地方は、想像以上の火の車だ。
ただでさえ減ってしまった若い人では、職を求め、あるいは勉学の場を求めて、次々と都会に流出していく。戻ってこようにも、生きてくための職がない、パイがない。
残念ながら田舎に残されたお年寄りは、満足には働けない。身体のどこかになにかしらのガタを抱えている。膨れ上がる医療費、かさむ出費。そのくせ満足に働けないから税収はどんどん落ちてく。お役所とて確実に首は絞まっていく。
結果として、「効率化」という名の統廃合の連続、寂れ続ける田舎、そして相次ぐ合併、合併、合併の繰り返し・・・
おそらく、「効率化」の元に一番切り捨てられるのは、「地方」、それも、「まだ人が生きている地方」に相違ないだろう。
「地方に未来はあるか?」
おそらくこれからの日本は、間違いなく、「効率化」に動くはずだ。
理由は「もうお金など残っていない」から。
「儲かるところだけ投資して、不良債権の部門は切り捨てる」民間ならば常套手段だ。
「無駄を切り捨てる」といえば、反対の声もあげづらいだろう。だけど・・・
「あなたは、それで満足かい??」
地方の色が失われて、それで満足かい?
「自分とは関係ない」で済ませて、それで満足かい?
東京と、あと適当な街だけ栄えていれば、それで満足かい?
上京しなきゃ掴めないチャンスなんて、おかしいと思わないのかい?
田舎のことをいくらなんでも馬鹿にしすぎてやしないかい???
この日本は間違いなく、「地方の特色の結晶」だと思う。
東西にも、南北にも細長く延びきってかつ、海で隔てられたこの妙ちきりんな国「日本」
一つ一つの地方の特色が集まって、この日本を形成している。
その地方を順に切り捨てていったらどうなるのか?? 一度胸に手を当てて考えてほしい。
最後に、こんな落ち目に見られる田舎だけど。
そこには汗水垂らして、死ぬような思いで地元の経済を回している人がごまんといる。
きっと誰もが、見えないけれど、確実に迫り続けている恐怖と、必死になって、闘っているんだ。
地方から、愛を込めて。
皆様の目に触れることが出来、深く、深く、感謝しています。
皆さんの旅路に、幸せが溢れることを願って。
チバヒロユキでした。
最後に、この曲をお聴きください。
テキスト:チバヒロユキ
編集:菊地 和俊