自由という価値の本質は?
サラリーマン時代は、随分と自由に憧れたものだ。
行きたい時に行きたいところへ旅をしたり、時間も忘れてやりたいことにのめり込むこともできる自由だ。
サラリーマンなら誰もが夢見る自由だ。
定年退職後の自由とは?
定年退職前までは輪郭のぼやけた未来しか想像できていなかった。
脳の中で天秤にかければ楽しそうなことや自由という幸せに大きく傾き、ネガティブな思考は軽く浮いていた。
定年退職で自由を手に入れ、その自由の本質が段々と見えてくるのは少し経過してからだ。
自由に生きる環境
会社という組織から離れれば、肉体的にも精神的にも縛られるものは何ひとつなくなると思った。
年金を受給する歳になれば家族の責任も少なくなる。
中には親の介護が圧し掛かる人もいるだろうから、誰もが全ての責任から逃れられるわけではないだろう。
私が少し早めに定年退職に踏み切ったのも、子育てや親の介護が終わっていたからだ。
子供たちはそれぞれ自立していて、要介護になった親も見送っていた。
私の50代は会社での責任が重くなり、子供たちは大学生で最もお金を必要とした時期だ。
そこへ親の認知症が重なり人生最大の難関であり、がんじがらめの生活を送ったように感じていた。
そんな時に夢見たのは定年退職後の自由な人生だ。
会社での責任と子育ての責任、それに親の介護責任から開放された時、やっと最後の自由な人生が手に入ると思っていた。
しかしその自由がどのようなものなのかは分かっていなかった。
自由を受け入れる勇気
実際に定年退職して自由というものを手に入れた私は、その自由を持て余すようになった。
自由な中で生きるということが思ったほど単純ではなかったということだ。
何十年もサラリーマンとして沁みついた感情をうまくコントロールできなかった。
社会からの疎外感、働かない罪悪感、生産性のない日々の負い目といった感情が心を蝕み、旅をしていても心から楽しめない気がしたのだ。
おそらく私の性分に起因するところも大きいだろうが、定年退職の半年後から2年くらいそのような負の感情に苛まれた。
つまり心から楽しめる自由を手に入れるまでに3年近くかかったという訳だ。
定年退職前から自由に生きる人生について覚悟ができてとしたら、もう少し違っていたのかも知れない。
私が自由の陰にある負の感情をコントロールするために用意したのは、自ら己を縛り付けるトラップだ。
それが昭和のサラリーマンのような数字目標だ。
せっかく自由になったのに、メンタルを安定させるためには結局縛られるものが必要だったという訳だ。
自由の本質は不自由な生活にあった
これらはあくまで私の主観だ。
今も毎日Noteを書き、ドラムスキルに目標を立て毎日トレーニングしているのも本来の心の自由を得たいからだ。
三日坊主の悪癖を持ちながらなぜ継続できているのかと考えると、嫌いなことでないからということが一つの理由なのは間違いない。
しかしそれだけではない。
脳にネガティブな思考を与える余裕を作らないためだ。
言い換えれば、何かに縛られてさえいれば情緒が安定するということを覚えたということだ。
本来の自由を手に入れるために自分を縛り暇をなくしていると言ってもいい。
サラリーマンとの違いは他人に縛られていないということだ。
自分で自分を縛っているのだから報われなくても納得できるものだ。
これこそ自由を心の底から楽しめるものだと思えるようになった。
毎日やることがあり、そのことに縛られたような生活を送っている。
そして他にやりたいことややらなければならないことがあれば、できる限りそれ以外の時間を作って行うことにしている。
自ら不自由な状況を作りその中から自由を得ようとするものだ。
自由に楽しめる旅
一通り心行くまで旅を楽しんだが、旅を日常にするには限界がある。
時間は自由に使えてもお金は自由に使えないからだ。
そこで私はそれまでの旅ライフを少し変えることにした。
車中泊旅を頻繁にしていた頃は、旅とYouTube編集が日常になっていた。
しかし旅を中心に日常を送るのではなく、インドアでやれることを日常にしてたまに旅を楽しもうと考えた。
サラリーマンの頃たまに旅を楽しんだように、忙しい合間に旅に行けば日常的に旅をするより楽しめそうだ。
旅も頻繁に行っていれば非日常感が薄れるというものだ。
これもサラリーマン時代と異なるのは平日に旅ができることだ。
しかも天気のいい日を選ぶことができる。
たまに行く旅ならもう少し予算に余裕を持たせることもできる。
つまり旅の自由度も上がるという訳だ。
最後の人生くらいはやりたいように生きてみたいと思っていたが、定年退職したら自由な時間も楽しめないジレンマに陥った。
それは自由という環境のメンタルをあまりにも甘く見ていたからだ。