希望寿命を考える!
私は年金生活者だ。
一概に年金生活者と言っても誰もが同じではない。
充分生活できるだけの年金を貰っている人もいれば、そうでない人もいる。
私も年金生活をするに至っては随分と生活を見直した。
今が人生100年時代というのは嘘!
今が人生100年時代という訳ではない。
このまま先進国の長寿命化が進めば、そのうち平均寿命が100歳を超える時がやってくるというだけだ。
現在の日本の平均寿命は男女共80代だ。
そして健康寿命ということになれば10歳は引かなければならない。
人生100年時代が来るのは83年後
70歳を超えた友人が来ても、寿命の話題を持ち出すことはない。
このくらいの年齢になるとおそらく誰もあまり考えたくないのだろう。
考えたところでどうすることもできないからだ。
近年よく、人生100年時代という言葉を見聞きする。
いかにも今が100年寿命時代のような錯覚をしてしまうが、とんでもない話だ。
この言葉を提唱したイギリスのビジネススクールの先生によれば、医療技術の発展に伴って長寿命化がこのまま加速すれば現在17歳(2007年生まれ)の人の半数が100歳生きるだろうという仮説だ。
その言葉を保険や金融、政府までもが、既に100年寿命時代に突入したかのような触れ込みをし、利用しているだけの話だ。
人生100年時代なのだから年金受給を少しくらい遅らせても損はないとでも言いたいのだろう。
自分の寿命に関しては誰もがポジティブに考えたいものだが、私たちの年代が100年時代ではないことだけは確かだ。
できれば私も元気で日本人の平均寿命を超え、90歳くらいでポクリと逝くのが望ましいとは思っている。
しかしそうは行かないのが現実だ。
平均寿命を健康で超えることができるだけでも幸せだと考えるべきだ。
健康寿命でいうともう数年しか残されていない。
日本人の平均寿命と健康寿命に10年の差があるというのは、医療の進歩で10年生かされているという風に理解するべきだろう。
祖母の死で学んだ死の瞬間
私の健康希望は75歳だ。
日本男性の健康寿命を少しだけ超えた年齢だ。
もちろん延命は望まないから、妻にはその旨をハッキリと伝えてある。
これまでも家族の死に立ち会ってきたから言えることだ。
私の祖母は最強の心臓の持ち主だった。
93歳まで生きたが、「早く死なせてくれ」と家族に懇願した。
喉に餅を詰まらせ救急搬送された一度目の回復時の話だ。
妻が詰まった餅を取り除いたお蔭で一命を取り留めたが、家に帰ってきた祖母は「そのままにしておいてくれたら楽に死ねたのに」と生きていることを悔やんだのだ。
次は絶対に死なせてくれと言い切ったのだ。
二度目にミカンを詰まらせた時は気が付くのが遅く、息ができないまま救急搬送された。
通常なら窒息死という結果になるのだろうが、祖母は脳死状態で生きていた。
記憶では人工呼吸器で1週間過ごしたが、回復の見込みはありませんと医師から告げられた。
人工呼吸器を止めれば概ね30分でご臨終になると説明を受けていた。
詳しいことは知らないが人工呼吸器を外すことについては病院側も慎重だった。
しかし本人がハッキリと望んだことでもある。
回復の見込みがない以上、これ以上の延命は本人も望んではいないだろうと判断して人工呼吸器を外して頂いた。
外してから2時間以上も心臓は止まらなかった。
ひょうっとしたらまだ生きたかったのではないかとも思えたが、家族全員の前で意思表示をした祖母の思いを尊重した結果だった。
まだ移植できるほど強靭な心臓だったようですと担当医師から説明を受けた。
つまり心臓の強い人は自分の意思に反して生かされる可能性が高いということだ。
脳死によって他の機能は全て停止していても、人工呼吸器だけで長い期間生かすこともできるのだ。
尊厳死や安楽死が認められていない日本では、延命治療についても明確な法律は存在しないようだ。
厚生労働省のガイドラインに従うしかないのだ。
最近やっと無理な延命治療を行わない選択肢が認められるようになってきたが、意思表示をしていなければ無理やり生かされるということだ。
私もそれはお断りだ。
希望寿命が10年を切った
希望寿命の75歳は平均寿命よりも5年以上も短いが、人生の最後を寝て過ごすのなら寿命を早めても致し方ない。
もちろん希望通りには行かないだろうが、自分の寿命が75歳とすればあと10年も生きられないということだ。
もしそれ以上健康で生きることができれば儲けものだ。
そして健康な状態で寿命を全うするつもりなら健康保険や生命保険も必要ない。
いや、そのような保険や年金は返って家族の決断を鈍らせかねない。
10年程度の寿命だと思えば毎日やりたいことをして生きることにも納得がいく。
早めに年金受給することを決断し、その年金を生活基盤にしながら好き勝手に生きていることへの正当性を自身に言い聞かせているだけなのかもしれない。
今日充実した日々を過ごせるのも、希望寿命を全うしようと考えているからだ。