京都の「いやみ」という文化
京都の良くないと思われてきた文化、「いやみ」や「いけず」なんかが最近注目を浴びてるみたいで、むしろ皆、興味深々な感じで近寄ってきている。
この他府県から懸念されて遠巻きに眺められてたような文化が、むしろ身に着けたい!取り入れたい!みたいに扱われるという現状は、嫌われるよりかは 喜ばしいことでもあるんかもしれへん。
この前、ある友人に藤原竜也さんが出てはる金鳥のCMの「いやみ」について「あれは”いやみ”なん?」って聞かれたけど そのCMを残念ながら気に留めてへんかったからどんなんやったっけ?と聞いた。いや、もう、テレビにはエセ京都弁が蔓延してて、一々気にしてへん。
動画で確認したけど、これは”いやみ”違うんちゃうかな?っていうのが、”いやみ”ちゅうのはもっとわかりにくくて、しかし、ちょっと皮肉ってて、あとから「あれ?あれは”いやみ”やったんやろか?」くらいの感じのもんやねん。しかし、京都人にはピンときてすぐに”いやみ”や!ってわかるねん!だから、間一髪で”いやみ”で返さなアカンねん! そういう意味ではこれぞ京都人が京都人としてのステイタスな文化で それが出来ることこそが京都人である証拠やねん。
ということで、結局のところ ”いやみ”を言うのには技が要るねん。それを育つ中で身に着けてるんが京都人やねん。まあ、自慢できる技かは分からんへども、、、
で、よく言うんは「”いやみ”が分からんかったら 分からんほうが幸せやで」ということ。分からんで素直に返事するのが結局は一番嫌がらせ返しになるようなもんやと思うし。わかったらイヤな気分になるし、やり返してもいい気分にはならへんし。分からんで知らんのが一番ええことやと思うわ。
話を戻すと、金鳥のCMが”いやみ”のつもりやとしたら それは”いやみ”になってないんやけど、CMやからわかりやすくしないと伝わらへんやろし、ということはそこに”いやみ”を入れ込むとしたらエライ大技をかけんとなかなか難しいことになるけど、そんな大技なかなか繰り出せへんと思う。。
ということになるんかな。。。
今となっては京都で育った人でも 若い人はもう”いやみ”とか解らへんやろし、結構平和な街になってきてるとおもうよ。