恋心がなくなったんじゃなくて、ファン心が大きくなっただけ
夢としての好きと、ファンとしての好きはどう違うのだろうか?
わかりやすく言えば恋人になりたいか、そうじゃないか、だろうか。
最近の私は、とにかく彼のことを応援することが楽しくて仕方がない。夢小説を書かなくなってしまった。いや、正確には書き途中のものはあるけれど、恋人同士のような視線が交わるような空気を感じるとそわそわしてしまう。
少し前は、恋心としての彼への好きが薄くなってくると不安で仕方がなかった。だって、彼に向ける私の感情って、それしかないって思っていたから。
恋人でいること、恋愛として想い慕うことが私の彼への感情のすべてだと思っていたから。不安で、寂しくて、怖かった。彼への感情がこのままなくなってしまうのではないかって。
それが今は、ファンとして好きで応援したい気持ちで彼のことを見つめていて、それでもかっこいい!と思うことはあるけれど、辛くないのだ。
ファンとしての好きって、とても楽しい。
本当に楽しい。
2推し(あんまり使いたくない言葉だが2番目に好きとかそういう意味で使ってます)の人とか、なんとなく好きな気がするな、っていう人のことを応援する時と近い。
そんな好きになり方を、一度でも恋愛として「大好きだ!」と思った人に向けることが出来るのだということが、なんだかとても新鮮だ。
前にも同じようなことを書いた気がするけれど、本当に私にとっては新鮮な感覚なのだ。
こんなにたくさん好きなのに、苦しくない!
私の名前を呼んでくれないのに、彼の名前を呼べるだけで楽しい!幸せ!なのだ。
きっかけは、やっぱりムビナナな気がする。
そして、より一層これまでよりも「彼の内面」を理解しようとしながらストーリーを読み、噛み締めて過ごしたことが、きっかけにもなっていると思う。
あんなにも、ハッピーで、周りの人の笑顔が大好きで、メンバーが大好きで、自分を好いてくれる人のことを好きで大切に思っている彼のことを好きな私が、同担拒否をしているなんてなんだか恥ずかしい。そう思ったのだ。
当然、別に彼にそう言われたわけではない。
言いようによっては自身にかける洗脳に近いだろうか。そう言い出してしまったら、恋愛だって洗脳のようなものだけれど。
無理やり言い聞かせているわけでもなくて、本当に自然にそう思えた時、自分が纏っている固くて冷たい殻がパラパラと剥がれ落ちたような気がしたのだ。
それから、私に大きなきっかけを与えたもう一つは、これもムビナナだが「応援上映」だと思った。
思えば、最初に後輩さんに連れて行ってもらったのも応援上映だった。その時は名前がわからなくて彼のことを呼ぶことはできなかったが、その後映画館に通う中で、友人と一緒でも一人で行く時でも、応援上映の時には彼の名前を思い切り呼んだ。
彼が舞台の上にいる時、彼らが唯一“わたし(達)”を見てくれている時、彼の名前を呼んで大好きを伝えることが出来て、これまで報われなかった様々な恋愛感情の苦悩の日々が全部報われたような気がした。
“伝わった”気がしたのだ。
ここから、私は応援するということの楽しさを知って、そしてある意味では満足してしまっている。
多分、大半のマネージャーさん達はそうなのだと思う。
もちろん、ファンでいても彼らの葛藤や苦しみや悩みを目にしてしまった時は、苦しいし辛い。
決して比べることはできないことだと思うし、比べてはいけないのだろうけれど、それでも、恋愛感情として好きでいるよりも救いがあるように思う。
私をフォローしてくださっていたり、私のこれまでの記事を読んでくださった方がこれを読んだら、「なんだ、逃げか」って思われることもあるのかもしれない。
逃げかもしれないし、そうではないかもしれない。
でもいいんです。
今、とても幸せなんです。
どっちがいいとか、どっちが正しいとか間違ってるかとかじゃない。
コントロールしてファン心に専念しようとしたわけでもない。
彼を好きで居続ける過程で、感情が変わっただけのこと。
不変であることを望んでいたけれど、変われたことで彼との距離もちょうどよく感じられるし、何よりも楽しくて幸せ。
今日も、たくさん彼の名前を呼んできました!!
本当に本当に格好よかったです。
宇宙一だと思います。
また会いに行くからね。