芥川龍之介『羅生門』ー平安朝のSentimentalisme
はじめまして。ほぼ鯨と申します。
先日Twitterで「#名刺代わりの小説10選」なるタグを見つけました。
自分でも10作品選ぶうち、感想を書くこと込みで、読書を楽しみたいと思った次第です。
今回は『羅生門』を読み返してみました。
テクスト分析めいたことを含め、考えたことをつらつらと書いていきます。
■はじめに
芥川龍之介『羅生門』の結末に触れている箇所があります。
青空文庫でも公開されている短い小説です。
あらかじめ読んでいただいた方が、分かりやすいかと思います。
■あらすじ
ある日の暮れ方、荒れ果てた羅生門の下で、下人は途方に暮れていた。
飢死を選ぶか、飢死しないために盗人になるか。
決心がつかないままの下人は、羅生門の上で老婆を見つける。
老婆が死人の髪を抜いていることに気づいた下人は、義憤にかられて老婆を取り押さえ、何をしていたのか尋ねる。
老婆はそれに答え、「飢死にしないためには悪事をはたらくことも仕方のないこと」だと弁明する。
それを聞いた下人は、飢死しないために盗人になることを決心し、
老婆の着物をはぎ取って羅生門から去っていく。
その後の下人の行方は、だれも知らない。
■「Sentimentalisme」
『羅生門』の語り手は、「旧記」を参照してこの物語を書いている作者本人です。
(この語りの言う「旧記」は『方丈記』『今昔物語集』のことだそうです。)
このことは、下に引用した本文から分かります。
さらに読み進めたところに、次のような文章があります。
「平安朝」には似合わないフランス語が出てきました。
「旧記」が書かれた「平安朝」の日本にある言葉だとは思えないため、これは「作者」の語彙によるものでしょう。
「Sentimentalisme」という言葉の登場により、『羅生門』は単なる昔話ではなく、現代人に向けて再翻訳された物語になります。
“どうにもならないことを解決するためには、悪いことをするのも仕方ない”
これは平安朝の下人と、今を生きるわたしたちに共通する選択肢です。
■行方不明の結末
”どうにもならないことを解決するためには、悪いことをするのも仕方ない”という考えは、干し蛇売りの女→老婆→下人へと伝わっていきます。
リレーのバトンに似ていますね。
物語内でバトンを最後に持っている下人の行方は、だれにも分かりません。しかし、『羅生門』の読者たるわたしたちは、バトンの存在を知りました。
あらゆる悪を許さず、正義に殉じるか。
どうにもならないことを解決するために、悪事を肯定するか。
わたしたちも、この選択を迫られるときがあるかもしれません。
どちらを選ぶのが正しいのかは、だれも知らないのでしょう。
■結論
芥川龍之介『羅生門』は「正義とエゴイズムに基づく選択肢の提示」の物語だと考えます。
下人が盗人になる決意をしたことについて、物語内ではその是非は問われません。
羅生門からいなくなった彼がどうなったか、その選択が正しかったのかは、読者の想像に任されています。
■最後に
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
ぜひ、皆さまの『羅生門』感想をお聞かせください。
なお、テクスト分析の教科書として、廣野由美子『批評理論入門』を参考にしています。
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