【雑想:記憶について】

このところ、自分の記憶を呼び起こす能力が著しく低いことを強く自覚することが立て続けに起きて、自分で自分に対して幻滅するような、でもどうしようもないような、モヤモヤした思いが強くなっている。

大事だと思っている友人との会話で、相手が語る楽しい記憶を共有できず、相手の表情が少し寂しげに翳るのをみると、どうにもいたたまれない。

「どこそこいったよね、なになにしたよね」といわれるけれど、残念ながら本当に思い出せない。その人がいきいきと語る表情から、その人の記憶の中で僕がいきいきと輝いていることが推測されるけれど。重ねて、「え、思い出せないの?確か誰それがいてさ」と言われるけれど、思い出せない。そうして、「ああ、うん……」と、明確に言葉には出さないけれど、段々と意気消沈して、がっかりする様子が見てとれる。

他人と過ごした記憶は、自分で自分を慰め、支えるための、最後の砦のように思う。それが楽しいものであれ、苦労したものであれ、誰かとなにかしらのときを過ごしたこと、ともに分かち合った記憶があること、そしてそれを共有できることは、唯一、自分を許すために必要なカギのようにも思う。「失われたときを求めて」、に出てくるマドレーヌのように。花開く記憶こそが、救いなのではないかと思う。

僕は数年前から、自分の記憶に対して自信が持てなくなってしまっていて、この記憶は、僕が僕の都合のいいように作り替えたものなんじゃないか、捏造したものなんじゃないか、という思いがいつもぬぐいきれない。

記憶として確かだな、と確信を持っていえることは、震災で子どもを無くした親に、「何か困ってることはありませんか」と無遠慮にも尋ね、「そうですねえ、子どもがいないことくらいですかねえ」なんてやり取りしたこととかぐらいで、その他の記憶は、ぼんやり遠く、擦りきれたビデオテープのようで、昔、を思い出そうとする度に、不安で心もとなくなる。全部、僕の一方的な思い込みで、幻だったんじゃないかな、というような気もしてくる。

僕がずいぶん前から好きでなくなってしまったとある歌手は「自分が古くなるから」、「私は写真を撮られるのを嫌がる」なんて歌ったけれど、でも、写真に残っていないようなあのときの記憶を思い出を、出来事を、どうやって明確に、いきいきと、鮮やかに、浮き彫りにできるのか、僕にはさっぱりとその手段がわからない。

もう会うことがなく、会うことができない人々は、たくさんいる。小学校の先生や同窓生がいまも元気にしてるかどうかなんて全然わからないし、まだ関係として新しいはずの大学時代の知人や友人だって、その関係性はほとんどすべて、ちぎれてどこかにいってしまった。僕が捨てたのかもしれないし、逆に捨てられたのかもしれないし、どちらがどうなのかはわからない。

もうどうでもいいや、意味や価値なんて何もないし、というある種の諦めや生きることへの手応えの薄さが根にあるようにも思うけれど、どうしたらいいのかはさっぱりよくわからない。とりあえず今度からは、たくさん写真を撮って、形に残そうとすることを、やってみてもいいのかなあ、とぼんやり思っている。

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