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ライター 5年目、新たな目標
職業ライターとしてではない。書き手としての目標ができた。
小説を書くこと。
正直なところ、小学生の頃から何度か挑戦しては、挫折を繰り返してきた。小説を読むのは好きだが、私が書くなんてとんでもない。作家を目指すなんて、図々しいにもほどがある。文才なんぞ、あるわけないではないか。
そう思ってきたけれど、「書きたいことを書く」スタイルは、小説がしっくりくる。
1冊の本を読み・・・
岡田尊司さんの「愛着障害と複雑性PTSD」を読み、「生きづらさ」に苦しみ、もがき、対処を見出してきた体験を書こうと決めた。
多くのプロフェッショナルは、専門的知識の鎧に身を固め、生身の自分自身をさらけ出すことは滅多にない。それはそれで意味があり、公私の区別なく、自分の話ばかりするようであっても困るのだが、傷ついて自分をさらけ出すことに極度に臆病になっている人にとって、鎧に身を固めたプロフェッショナルに、生身の自分をさらけ出すことは、よけいに困難だ。
中略
傷ついた人の心に寄り添い、自分の鎧をとり去るのが上手な人は、重要な瞬間において、自分自身の体験を語るという方法を使うことがある。相手が心を開こうとすることに、自分も自己開示することで応えようとする。
あるいは、身をもって先に行うことで、相手の抵抗や恐れを軽くする。恥ずかしいはずのことやみっともないこと、みじめだと感じてしまうような体験を語る。
中略
みじめな体験や恥ずかしい体験をだれにも知られないように隠すことよりも、それを開示することは、なにか大切なものをとり戻す行為であることを、身をもって示してくれるのである。
この文章を読み、「私にしか書けないこと」が少し、見えた気がする。
生い立ちやらも関係し、同情の目を向けられることが多かった。
「さぁ、なんでも話して!」と見つめられるたび、ひとつの疑問が湧き上がる。
なぜこの人たちは私を「かわいそうな人間」と決めつけ、根掘り、葉掘りと聞いてくるのだろう。悩みを聞くだけ聞いて、自分のことは一切、話さない。
ああ、そうか。この人たちは「相談に乗ってあげる側」にいるんだ。同じステージではない。少し上から、見下ろしているんだ。
だから、教師になってからの面談でも「最近どうですか?」とは問わなかった。まずはこちらから話をして、「ご家庭ではいかがですか?」と質問する。
「先生って、良い意味で"先生"っぽくないですよね」
理由を問うた私に話してくれた、保護者の言葉が忘れられない。
「なんというか、ガードが緩いから。ガチガチに守られていると、本心なんて話せないです」
自分語り、上等じゃ〜
「自分語りはいらない」「読者が求めるものを書く」
巷で広まる風潮に、違和感を覚える。
自分語りはいらない!と言いつつ、悩んだときに欲するのは「生身の体験」だ。めっちゃ、自分を語っている。というか、自分の体験を話さない人を、心から信用できるだろうか。
私はできない。むしろ、失敗談を話してくれる人にこそ、安心感を抱く。
(借金数億から成功者になりました!的なんは、論外ね。要約して「俺(私)、すごい」になる話は、聞く意味ないと思っている)
テーマが決まり、エッセイを書き始めた。軸になるのは「母と娘」の関係だ。ただ、母が健在の今、リアルを語るエッセイはちょっと違う気がしてきた。
恨みつらみとか、不満とか、苛立ちとか。そんなステージはとうに通過した。こちらに負の感情はないけれど、文章にするとどうにも湿っぽい。
小説ならば、フィクションかノンフィクションは「ご想像にお任せ」できる。万が一、母の目に触れたとしても、「架空の話よ」で済ませられる。
自分が抱いた感情を、架空の人物に載せて描く。未知の世界を見てみたい、と思った。
そんなこんなで、小説。挑戦してみる。