見出し画像

ひとりって孤独?

私は1人が結構好きだ。1人でフラッと散歩に出かけるし、ラーメン屋や映画館にも入る。そんな私だけれども、高校2年生のある時期までは1人が超絶苦手だった。


「悪口に同意しない」は大罪

小学校は4人グループ。中学校は8人グループ。高校は、7人だったかな。当然のようにグループで行動し、行きたくもない場所に付き添う。隣にクラスメイトはいたけれど、あのころの私は、多分孤独だった。

グループのメンバーだったYちゃん。ある日、Yちゃんからその場にいないMちゃんの悪口を聞かされた。「どう思う?」というYちゃんに私は、「大変そうやね。Yちゃんの気持ち、分かるよ」と心にもない返事をする。

どうやらYちゃんは、Mちゃんの言動全てが気に食わないらしい。毎日、何かにつけてMちゃんの悪口を言ってくるようになった。「陰でコソコソせんと、直接話せばいいのに」と思うけれど、言えない。

ある日、Mちゃんの悪口を言った後で「〇〇(私)はどう思う?」とたずねたYちゃんに、私は「うーん、そんなひどいことかなぁ。そういう考え方もあるんやない?」とつぶやいた。言ってから「しまった…」と思ったけれど、遅かった。態度が豹変したYちゃん。スイッチを押してしまった瞬間だ。

デマを言いふらし、孤立させる

翌日、学校に行くと「いじめ」がスタートしていた。いつものように「おはよう」と言って教室に入るけれど、声は返ってこない。違うグループのクラスメイトたちも、見てはいけないものかのように無言で目をそらす。

「デマを信じ込ませるとき、9割の真実に1割のウソを混ぜる」と聞いたことがあるけれど、ないこと・ないこと吹き込まれた(後から聞くと、笑えるぐらいのデマだった)。

それまで学校生活で1人になったことがなかったので、とにかくつらい。何がつらいって、教室を移動するときや、お昼にお弁当を食べるとき。

みんなの楽しそうな声が聞こえる教室で、1人、弁当箱を開ける。複数の仕事を掛け持ちしている母が、睡眠時間をけずって作ってくれたお弁当。きっと、友達と楽しく食べていると思っているんだろうな。そんなことを考えていると、涙があふれてくる。

なんで、私がつらい思いせんといかんの?

「死ね」「消えろ」「ウザい」の言葉を浴び続けるうちに、あれだけ「ゲラ(大阪弁で「よく笑う」意)」と言われた私がちっとも笑えなくなった。家族と何気ない話をしていて、ひっさしぶりに笑ったとき、うれしくて涙が出たことを覚えている。ああ、笑うって、こんなに幸せなことなんやなぁって思った。

「学校」という狭い空間で、よってたかってヒドイ態度を取られ続ける。存在がないかのように扱われる。ああつらい、悲しい、ほんまに消えてしまおうかな。そんな思いがよぎったとき、ふと気づいた。

「なんで、私がつらい思いせんといかんの?」

未熟な人間やけれど、少なくとも私はいじめに加担していない。悪口に同意しなかった私が笑えなくなり、いじめている張本人は楽しそうに笑顔を見せている。こんなんおかしいやろ。そう思った。

「1人を楽しむ」という発想

元来、負けず嫌いな私は、「私がつらい顔見せとったら、相手の思うツボやん」とハッとする。

けれど1人は寂しい。なんで1人が寂しいって思うんや?それって「1人は孤独」やと思っているからやない?

もっと言うならば、「あの子、1人でかわいそう」って思われたくない。突き詰めていくと、「人からどう見られるか」を基準にしている自分に気づいた。

状況は変わらない。だからといって悲しい顔を見せて、いじめている子らを満足させるのは嫌。そんな私が思いついたのは「1人をとことん楽しむこと」だった。

お弁当の時間は、本を読めば寂しくない。周りの声が感情を揺さぶるなら、イヤホンをして音楽を聴けばいい。

教室を移動する間には、考えごとをしよう。家族や学校が違う友達と話すときに、じっくりと考えられる「ネタ」を見つけておこう。

1人を楽しむようになると、私の頭は、心は忙しくなった。そのうちグループなんてどうでもよくなり、何をしても悲しそうにしない私に飽きたのか、いじめもおさまった。

孤独かどうかは、心が決める

私は群れるのが嫌いだ。コレばかりは人によるやろうけれど、群れているときこそ「孤独」を感じる。

高校2年生のあの経験を機に、私は友達を選ぶようになった。無理して付き合わない、自分を殺さない。そんな私の周りには、「ちょっとあの店行ってくるね。後で落ち合おう」とバラバラ行動できる友達がいる。

教室にポツンと取り残された気分になっていた、あのころの自分に伝えたい。
「1人って、めっちゃ楽しいで」と。









いいなと思ったら応援しよう!