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共に戦う、一人で立ち向かう。

「子育てに関わる大人。多いほど良いと、人は言う。…ただ、私は振り回された。」

みほさんがおっしゃった言葉が耳に残る。

オンラインサロンSENSEの「ママパパワークショップ」での大きな出逢い。

6人の子どもたちを抱え(うち2人は双子ちゃん)、モラハラ夫から逃げたみほさん。

一時は施設に入り、保護された身となったみほさん一家。その施設はカメラ包囲網が巡らされた場所だったそう。

守られているのか、監視されているのか分からず、すぐに出ていくママたちも多いそう(そりゃそうだ泣)。

壮絶な過去を抱えながらも、今は仕事に育児に立ち向かうみほさん。可愛らしいルックスに隠された、芯の強さ。

私は心を打たれた。みほさんの過去。みほさんのお言葉。どうしても広めたくて、本人に許可を得てブログに綴る。


決して強くない、でも決して弱くもない。みほさんが紡ぐ言葉。出会いに感謝して。


①この子達を守る。その覚悟。

わが子を守る。ただそれだけの覚悟があるのだと思う。その覚悟に私は心を打たれた。

「関わる大人が多ければ多いほど良いと人は言う。ただ、私は色々な価値観に振り回された。無責任な発言や行動に傷ついた。」

これはみほさんの言葉である。その言葉が痛烈に胸をえぐる。

決して「子どもが多いから悲劇の人生」ではなかったはず。ただ、子どもがいるからこそ、たくさんの大人たちが無責任に関わり、価値観を押し付けた。

それらが、みほさんを迷わせ、惑わせ、苦しめていたのではないか…。そう感じた。

私は、学校の教員として、猛烈に反省する部分がたくさんあった。良かれと思ってやることはたくさんある。ただ、その一挙手一投足が「子どもに向き合うママ」をどれだけ傷つけたか。

どれだけ焦らせ、どれだけ悲しませたか。思い当たる節がありすぎて反省する。特に初任者の頃は。謝りたいママが、何人も脳裏をよぎる。

「やってあげたい」という思いも、もちろん大切。ただそこにはやはり「他人の子」だという「無責任さ」も共存する。



②昔は地域のみんなで育てたんだよね

「昔は地域のみんなで育てたんだよね。」よく聞く言葉だ。ただ、そんな生ぬるいものでもない気がする。過去は美化される。

働く親に放置され、野放しにされる。無責任に、理不尽に怒られることもあっただろう。「子を育てる」というのは、いつの時代も覚悟がいる。実際、私が「放置され、野放しにされた娘」だったから分かる。



③ネグレクト状態の過去。地域への思い。

日本は高度経済成長真っ只中。

公務員の両親は気づけばいつも家にいなかった。祖母は畑仕事に出ていた。2歳の頃、昼寝から起きると家に誰もいない。姉も兄も保育園に行っていた。家にかけられた鍵をこじ開け、おばあちゃんを探すが、迷子になる。

隣に一人暮らしのおばあちゃんがいた。いつも土足で上がり込んでいたらしい。

私の一番古く鮮明な記憶は、3歳の時。その隣の家のおばあちゃんのお葬式だった。雨の日だった。ブルーシートが玄関にかけられ、大勢の黒い服を着た大人たちが家に集まっていた。

私の知っている日常ではない「何か」を感じた。ただ私は「子どもだから」と、家にいさせられた。私にとっては大事なおばあちゃんだったのに。三輪車で遠くから見ていた記憶がある。寂しかった、悲しかった、ただ何があったのかも教えてもらえなかった。




④ただ、母にいて欲しかった。

私は家の中で満たされない子だったから、近所の大人に満たしてもらっていた。それは端から見ればすごく幸せなのかもしれない。ただ、私は本当はもっと見て欲しかった、家の中で。母に見て欲しかった。母にいて欲しかった。もっと、もっと・・・。ただ、寂しかった。



⑤きょうだいの比較。

勝手に比べていた。4歳上の頭脳も見た目も良い姉。自分と比べて「私は勝てない」と決め込んでいた。途中から違う世界の人間だと思っていた。

気付いたら勝手に海外に飛び出し、気付いたら国を飛び回るCAになってた。私からしたら、何を考えているのか分からない、クールな別次元の人。

腕っぷしと口が達者で、いつも私をいじめてくるジャイアンみたいな3歳上の兄。

どう考えても理不尽なやつだけど、足に障害を抱え、通院や入院、看病・・・母はいつも兄の味方をしているように思えた。兄からの「理不尽な年下いじめ」を母に訴えても「そうかそうか」とニコニコして聞いていた。

「お兄ちゃんを怒ってよ!」といつもブチギレていた。「こら!」と可愛い声で言うだけ。自分がイライラした時は自分勝手に怒るくせに。毎晩いじめられて泣いて泣き疲れて寝る。もう通常の光景だった。

(「末っ子はいいよね」「長女気質」とかいうワードを聞くと「こっちだって大変なんだよ!生まれた時から母の争奪戦が始まってんだよ!くそう!」と声を大にして言いたいw)

話が大きく逸れた。

⑥そして、母になる。令和の母とは。

私は自分が母になり、自分のことが許せなくなる日々が続いた。社会と寸断された空間。全く音のしない空間。比較的よく寝る子だった。「育てやすい子ね」と言われた。そうなのかもしれないが、私はその静けさが耐えられかった。

何をしていいのかわからなかった。むさぼるように本を読み漁り、意味もなくTOEIC満点を目指して勉強をしてみたり。力の使い所が全くわからず、空回りする毎日。

「のんびりする」そんな人生送ったことがなかった。リングの上で戦うプロレスラーに「大変だと思うから、まぁお茶でも飲みな。」とおばあさんがお茶を出したところで、なんの休息にもならない。それと一緒。(いや、一緒かどうかは知らないw)


⑦育児の分担、男女の役割?

辛く苦しい不妊治療の末、貯金を切り崩し続け、生まれた待望の第一子。本当は双子のはずだったが、生まれてくれたことの安堵感が勝った。「共に育てる」と固く誓ったはずなのに、夫は相変わらずいつものペースで仕事をする(ように見えた)。「あの誓いはなんだった」と言いたくなる日々。今の日本で、働くことが大変なことくらいわかってる。だから言いたくない、でも思ってしまう、その葛藤。

今の時代は子どもの頃、基本的に男女平等に育てられる。社会に出るまで基本「男女同じ」。学校だって「男女混合名簿」「さん呼び」「帽子の統一」「ランドセルの自由化」etc。なんだか混在している。区別なのか差別なのかごっちゃごちゃ。職場に入れば「女のくせに」と言われることもあれば「女でもやれ」と言われることもある。LGBTQ…カラフルを認めるような状態ではまだない。



⑧女である敗北感を感じた、子育ての始まり。

「圧倒的敗北感」を感じた育休。突然キャリアを止められ「今まで私が挑んできたものはなんだったんだ」。

夫よりも稼げるはず、夫より働けるはず。そんな根拠のない自信が、自分をまた苦しめた。

「はあ、またひとりぼっち。」そんな思いが脳内を駆け巡る。すると授乳の時間がまた来る。髪の毛が抜け始める。腰が痛い、頭が痛い、産後ボケで全く頭が回らない・・・。どうしようもない変化に、全てが空中分解していた。



今までの私。常に何かと戦い、挑んだ相手は、たいてい「年上」「男」「格上」「学歴上」の相手だった気がする。常に「勝てそうもない相手」に対して、勝手に「挑戦状」を叩きつけ、のし上がっていった。(残念ながら、その相手はその挑戦の存在すら知らないw)



⑨共に令和をいきぬくママたちへ。

共鳴する価値観をもった仲間と、共に戦うことで強くなる。そしてまた一人で立ち向かう。この令和の時代に、共に戦うママたちに賞賛のエールを。「愛すべき人は、わが子でもママ友でもない。あなた自身である。」そう自分にも言い聞かせながら。

今日は全てを手放し、YouTubeで動画をハードリピートさせ、とっ散らかしたままのリビング。どちらかのうんちのほのかな匂いが漂っている気がする。・・・うん、大丈夫、生きてる。


おわりに。【SENSE】のススメ

こんな考えになれたオンラインサロンSENSEのメンバー、プロデューサーの川原卓巳さん、出会ってくださっているみなさんに、最大の感謝を。

そして、今まで私を包み込んでくれた全てのものに最大のリスペクトを。今、とっても幸せです。

読んでくださった方。ありがとう。オンラインサロンSENSEで待ってます。あなたにも会いたい。


追加。私の母へ。今までよく頑張ってきてくれたね、もう大丈夫だから、ありのままで楽しんで!公務員を定年退職したのに、また仕事探して孤軍奮闘する母・・・。うん、それがあなたらしさよね。ぼちぼち行き(生き)ましょう。ありがとう。私はあなたのように戦います。子どものため、地域のため、そして未来のため…。



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