永瀬廉主演『余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。』について語らせてくれ!
さて今回は評論リクエスト企画ということで、キンプリファン、中でも熱いレンレンこと永瀬廉ファンから「見てくれ!」と言われた作品を評論します。
ということでネットフリックスにて6月27日から限定公開された作品『余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。』
こちらを鑑賞しましたので、感想を書いていきます。
ちなみにネタバレはしまくるので、ご容赦ください!!
『余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。』について
基本データ・あらすじ
基本データ
監督 三木孝浩
脚本 吉田智子
原作 森田碧『余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話』
出演 永瀬廉、出口夏希、横田真悠、木村文乃 他
あらすじ
難病ものというジャンルに思うこと
ジャンルとして「余命もの」「難病もの」というものがある。
大抵の場合は「治ることのない病」に主人公がかかり、残された時間をどう生きるのか?
そして残された者たちに何を残すのか?
こうしたものを描き、見ているものの涙を誘う。
皆さんも何かしらの作品タイトルを思い浮かべるのではないだろうか?
僕が思い浮かべるのは「24時間テレビ」の中で放映されていたドラマが、まさにコレにあたる。
最近は減ってきていたが、長年にわたり放映され続けていた。
そして、その作品の主演は「ジャニーズ俳優」が行うのが慣例化していたとも言える。
さて、そんなジャンル作品と僕はとある時期から、距離を置いてくるようにしていた。
というのも、こうしたジャンル作品は、「不幸であること」を我々が見て「かわいそう」と感じたり、「不幸であること」に同情して、ある意味「感動する」という形で「消費」しているに過ぎないと感じたからだ。
これと同様のことを「24時間テレビ」にも僕は言いたいのだが・・・。
それは長くなるので、やめておくが。
こうした「ジャンル」そのものに強い嫌悪感があるので、この映画も割と警戒しながら見たのだが、まず結論から言っておくと、確かに言いたいことは山のようにあるし、上手くないと思う点も目立つが、こうした「ジャンル映画」が持つゴールのその先に向かって何かを伝えようという意思を感じられた。
そしてその点を持ってこの作品は絶賛してもいいのではないか?
と見る前と見た後で、「ジャンル」に対する考え方も含め大きく変化させられた。
その点を中心に語っていきたい。
三木孝浩 作品として
さて、今作の監督、三木孝浩だが。
過去作で僕は『ソラニン(2010年)』『思い、思われ、ふり、ふられ(2020年)』『TANG タング(2022年)』と3作品しか見ていない。
しかし2020年の『思い、思われ、ふり、ふられ』に関しても、今回と同様の感想を抱いた。
この監督が目指すのは、「ジャンル」が作り出したゴールの向こう側なのではないか?と。
『思い、思われ、ふり、ふられ』に驚かされたのは、この作品が「学生恋愛もの」のゴールを「恋愛の成就」というゴールに定めなかったことだ。
むしろ、その向こう側、この恋愛の結果が彼らの先の人生に「どう影響するのか?」という、人生という大きな物差しで描いた点にある。
例えばディズニープリンセスものが、かつては「恋愛至上主義」と言われているが、現在では「恋愛」も人生を彩る要素の一つとして描いている。
それと同様のことが「ふり、ふら」でも「よめ僕」でも描かれているとも言える。
ただし、それと同時に、その瞬間の刹那的な幸福をきちんと描いてもいるのも、特徴だと言える。
例えば「ふり、ふら」の学園祭のシーン、今作の「よめ僕」の学園祭シーンと類似しているのだが、「この瞬間こそが人生最良の瞬間である」という描写を、他シーンと比べて「劇的」に切り取るということもしている。
これは、「その瞬間の幸福」、それもまた人生の重要な1ページであることを否定はしていないことの表れである、と当時の評論でも評していたが、こうした過去作でも見られた描写もあり「おお!」と唸らされたりもした。
さて、「ふり、ふら」では「恋愛成就」をゴールとしなかった三木監督。
今作「よめ僕」ではどういう観点から「難病ものジャンル」を再構築したのか?
それは「不幸を消費する」ことからの脱却ではないか?
今作品、永瀬廉が演じる主人公、早坂秋人。
そしてもう1人の主役と言える出口夏希演じた、桜井春奈。
彼らはどちらも「余命宣告」された身であるということで、実は通常のジャンルものの孕んでいる「不幸要素」が2倍になっているのだ。
通常でも食傷気味になる展開が2倍。
しかも「難病もの」「余命もの」というものには、実は致命的な欠点がジャンルそのものに潜んでいる。
それは「余命宣告されたキャラ」に、本当の意味で我々が感情移入できないことだ。
我々観客の大多数は「人生の終わり」という地点を知らされずに生きている。
つまり今作における秋人の「1年」、春奈の「半年」というように最後が決まっている人生を生きているわけではない。
(もちろん交通事故的なもの、突然死のリスクは誰しもにもあるが)
すなわち、「余命宣告された」という人間が、ではその限られた時間をどう使うのか?
今作での秋人、春奈の「互いのために時間を使う」という決断に、第三者である我々が本当の意味で感情移入できるのか?
常にこの問題が、この「ジャンル」にはついて回るのだ。
例えば中盤秋人の父親が一縷の望みに託して「先端医療を受けてみないか?」という提案をする。
完治の可能性は薄い、しかも術後3ヶ月のリハビリが待っている。
この3ヶ月の空白期間、秋人は春奈と会えなくなる。
それは彼女と2度と会えないことを意味しており、その提案を秋人は拒絶する。
もちろんこの決断自体も、それはそれで尊いかもしれないが、自分ならこの「提案」を受け入れるかどうかということを考えてもしまった。
そして秋人とは違う決断をするかも知れないとも思ってしまったのだ。
つまり究極的な話をすると、同じ立場に置かれたことのない第三者=観客は「余命宣告」された人物の心境とシンクロできるのか?
ここに常に疑問の余地があると言えるのだ。
だからこそ、これまでこの「余命もの」「難病もの」というのは、主人公たちが置かれた「かわいそうな立場」を我々が、文字通り「かわいそう」だと思い、そしてその境遇に「同情」する。
そして「消費」するだけで終わってきたのだ。
では今作の試みとは?
さてこのツイートは、今作の監督のものなのだが、まさにこの「綾香」というキャラクターを「余命宣告」された2人と、観客の間に配置したことが今作最大のポイントではなかろうか?
個人的には「2人の恋愛要素」云々よりも、この綾香の心境の変化を描くことが一番重要であると思った。
というのもこの三浦綾香というキャラクターは、いわゆる鉤括弧付きで言わせてもらうと「リア充」と言える。
それも学年内でもスクールカースト上位に入る存在だ。
この綾香は序盤から春奈の小中学校の親友で、春奈の絵の中に彼女の存在が描かれるなど、大切な存在だったことが明らかになる。
秋人は何とかして余命幾許もない春奈と綾香を再開させようと奮闘する。
その際、綾香の取り巻きが秋人を冷やかすなどの描写からも、相当いけすかない部類の「リア充」として君臨していることが描かれている。
ただ物語が進むにつれて、綾香は「リア充」「スクールカースト上位」「モテる」など、学校生活に必要な幸福は全て手に入れているように見えながらも、実は「空虚」な存在であることが描かれる。
例えばカフェでバイトをしている時の笑顔、それと学校内での顔つきが全く違う。
取り巻き2人とはそれなりに仲が良いように見えるが、本当のところはどうなのか? とみれてしまうような描写も随所にされる。
この綾香は他人からは羨まれるようなポジションにいても、実際の彼女は満足はできていない。
春奈との再会後、彼女の病室で秋人と綾香の会話で「1ヶ月限定の恋を繰り返してる」などなど、実際蓋を開けてみれば、真の意味での充実など彼女はしていないことが明らかになるのだ。
物語の後半以降、秋人と春奈の交流を近くで見守ることになる綾香。
彼女は徐々に「本当の意味での人生の充実とは何か?」を学ぶことになり、変化していくのだ。
そして綾香の変化にならば、我々は十分に感情移入することもまたできるのだ。
先述したように、「余命もの」「難病もの」ジャンルの弱点。
つまり当事者でない限り、究極の意味で感情移入できないこと。
大抵の場合はそのことに気づかず、「悲劇」として物語化してしまい、それを受け取り側もまた「同情」という形で消費してしまう。
ただ、そこに「生きることの意味を学ぶ」「本当の充実とは?」という点に気づき変化するキャラクター綾香を配置することで、「同情としての消費」の先にゴールを作っている点には感心させられた。
作り手も先のツイートで「綾香が重要である」と言っているのも十二分に理解できるし、もしも綾香というキャラがいなければ、この作品はやはり「同情の二乗」という最悪な結果になったと言えるのではないだろうか。
その瞬間の美しさを否定しない
ということで、繰り返しにはなるがこのジャンルにおいて「感情移入」が難しいのは主役の2人だ。
ただ、難しいかも知れないが、彼らの過ごした瞬間の幸福は否定はされないし、それは十二分に美しく描写されている。
それが学祭のシーンだ。
普通ならば看護師長の春奈の母が「黙認します」というセリフを言うなんて、モラル的に考えればどうなんだ? と眉を顰めざるを得ないシーンも多く、確かにツッコミどころとしては大きい。
ついでに重箱の隅だがラストの実は春奈が秋人の病状を知っていた展開など、「守秘義務!!」と言いたくなったが、もうそこは置いておこうと思う。
ただ、2人が残された時間を最大限に楽しんでいる描写とし「その一瞬を美しく」撮ることは最大限意識されており、まさしく人生最良の瞬間こそ「今」であることを描いている。
確かにモラル的に考えれば、色々言いたいことはあるが、それでもそこは振り切っているのは映画的には全然OKなのではないだろうか。
ただし言いたいことはあるぞ!
とここまで、割と褒め一辺倒だが、指摘したい点もある。
例えば春奈の死後、秋人が春奈の夢と自分の夢を重ねて努力するシーンが描かれる。
これは秋人が「延長された時間」を「春奈との夢のために使う」と言うことが描かれているのだが、なぜか秋人の家族の描写が一度もないのだ。
例えば秋人を応援する家族描写などがなく、いない者にされているのは、さすがに指摘せざるを得ない。
また小さい話だが、綾香はどうやって「パスワード」に気づいたんですか?
秋人が教えてることは「からかってやろう」と言うモノローグからもあるように、あり得ないわけで。
遺品の「3本のガーベラ」から気づいたってことで良いんですかね?
あとこの「ガーベラ」が今回重要な伏線として描かれているんですが、木村文乃演じる花屋の店員が如何にも、「これ伏線です!」と言わんばかりに「花言葉」「本数の意味」を説明しまくるんですが、「何だこの店員失礼だろ」と思われかねないほど、ずけずけと人の心に土足で入ってくる感じはさすがにヒドイと思いましたね。
何もかも説明し尽くすと言う方法も個人的には「やりすぎ」感は否めなかったり。
あと不幸な出来事があまりにも重ねすぎてたり、春奈のお父さんの死に方とか、春奈の今際の際に秋人が倒れちゃうとか、「やりすぎだろ・・・」とか思ったり。
不幸な出来事を加算しすぎているせいで、志の高いことは目指しているのにも関わらず、従来の「不幸であることに同情する」という従来のジャンル作品と同じように受け取られかねないリスクが生じていることは勿体無いとしか言いようがない。
まとめ
と言うことで、言いたいことあるが、個人的には「志」と言う点に関し『余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。』は予想外に好印象を持つことができた。
少なくとも「難病」「余命」と言うジャンルが内包している問題点に対してのアプローチの仕方という点での工夫の仕方としては素晴らしいと言わざるを得ない。
あと、永瀬廉さんの主演作は初めてみたのだが、初めは「高校生だと!?」とか思ったりもしたけど、見た目は「リア充」だけど、演技でちゃんと「インキャ」にも見えるように演技できててよかったり。
あとこの人が役者として「天才」というのではなく「真面目な努力型」であることは何となく感じ取れたし、ただ「努力」しても漏れ出てしまう「不器用さ」みたいなものが今作の秋人には非常にマッチしているとは思いました。(この「不器用さ」も演じているのかも知れないけれど)
春奈を演じた出口夏希さんも衰弱の演技など、徐々に力尽きかけている、でも「生きる意思」を感じさせる演技はGOOD。
そしてやはり綾香演じた横田真悠さん、この方あって、高評価している点も大きいので、「感じ悪い」序盤とラストの変化は味わい深かったです。
監督のツイートにあるように本当に重要なキャラを演じていると僕も思いますので、みなさん2回目は綾香=横田さんを軸に見るのも面白いかと思います。
ということで、言いたいことはいっぱいあるけど、「志」の部分で僕は今作品を高評価したいと思います!
ぜひネットフリックスにて鑑賞してみてはいかがでしょうか?
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