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『インサイド・ヘッド2』は傑作だけど、2度と見れない件
今回は世界歴代アニメーション映画としての歴代興行収入を更新するなど、大爆進が止まらない話題の映画。
『インサイド・ヘッド2』を見てきましたので、そちらの感想を語っていきたいと思います。
『インサイド・ヘッド2』について
基本データ
監督 ケルシー・マン
脚本 メグ・レフォーヴ
製作 マーク・ニールセン
出演者 エイミー・ポーラー 他
あらすじ
どんな感情も、きっと宝物になる―ディズニー&ピクサーが贈る、あなたの中に広がる<感情たち>の世界。
少女ライリーを子どもの頃から見守ってきた頭の中の感情・ヨロコビたち。ある日、高校入学という人生の転機を控えたライリーの中に、シンパイ率いる<大人の感情>たちが現れる。
「ライリーの将来のために、あなたたちはもう必要ない」―シンパイたちの暴走により、追放されるヨロコビたち。巻き起こる“感情の嵐”の中で自分らしさを失っていくライリーを救うカギは、広大な世界の奥底に眠る“ある記憶”に隠されていた…。
これは2度と見れない・・・
結論は、そりゃ最高なんですが・・・
今回の『インサイド・ヘッド2』に関してどうだったのか?
結論から先に言うならば、文句なしの傑作であることは否定はできない。
ただ、個人的には「とあるシーン」が心に刺さりすぎて、あのシーンをもう一度平常心で見返すことが僕のメンタル的にできるのかどうか?
ある意味で「あっやっちまった」と言う僕の心の奥底に眠った記憶が呼び起こされ、それが僕の心の中にずっとこだましている。
ある意味で「恥ずかしさ」のフラッシュバックに苛まれる事態になってしまった。
その個人的な点には後々触れたくはないが、触れるとして。
まずは映画全体について振り返っていきたいが。
個人的には一作目と二作目。
実は描いていることの本質そのものは全く変わっていない。
映画の出す結論も大きく変わらない、ある意味でくり返しのような映画だったと感じた。
さて、そもそも『インサイド・ヘッド』一作目。
これは人間の感情を「キャラクター」として描き、人間の感情の移ろいを見事にアニメとして表現し、脳内の世界をファンタジー世界として具現化。
ライリーの中にある感情ヨロコビ 、カナシミ 、イカリ 、ムカムカ 、ビビリと言う感情たちが成長していくのがライリーの成長につながるということを見事に表現していた。
その中でも物語の主軸となるのがヨロコビ、カナシミだ。
最初はライリーを悲しませるカナシミが彼女の幸せにとって本当に必要なのか?
ヨロコビ中心の感情でライリーは幸せになることが出来ると考えて、ヨロコビたちはカナシミがライリーの感情に関与できないようにしてしまう。
ただライリーの脳内を巡る冒険で、カナシミと言う感情を抑圧することがライリーの幸せにならないと気づき、カナシミと言う感情もまた、ライリーの成長に不可欠であり、その感情があるからこそ人生もまた豊かになることを見事に90分で描き切ってみせた。
ではその続編である今作はどうだろうか?
前作から2年が経ち、ライリーは13歳になる。
前作のクライマックスで彼女の脳内司令室のコントロールパネルに設置されていた「思春期アラート」が冒頭で発令。
今までの感情5人組に加えて、アラート発令後、思春期相応に様々な感情が登場するシンパイ、イイナー、ハズカシ、ダリィ。
そして例外的に現れるナツカシ。
この4人は「不安」」「嫉妬」「羞恥」「怠惰」を司るキャラクターである。
これまでの比較的単純な5人組の感情に比べて彼らは、「思春期」を迎え心身、そして周囲の状況が大きく変化するライリーにとってこの複雑な感情もまた必要不可欠であることに気づくと言うのが今作の物語だ。
今作の構図は複雑なライリーを巡る環境の変化。
その状況に対して、割と単純な感情のキャラクター、ヨロコビ達が司令室を追い出されてしまう。
そしてシンパイたちが中心となり、新しい環境でライリーを適応させようとするが、それに対してヨロコビたちが「それはライリーらしさではない」と反乱を起こす物語になっている。
さて今作ではある意味でヴィラン的な存在として出てくる四つの感情。
これらは割と「良くない感情」として語られがちではあるが、今作ではやはり、その感情もまた「大切なもの」として語られる。
そして四つの感情が現れる前に「良きこととして」必要のない記憶を捨て続けたヨロコビたち。
「良い子」になるように「良い記憶」のみを「泉」に投げ入れ、ライリーが「良い子」になるようにしていた。
そしてそれを「ライリーらしさ」として正しいものとして捉えていた。
しかし本作ではそれも否定される。
ライリーにとってトラウマ的な記憶、失敗の記憶。
それらもまた彼女の人格形成にとって必要な物であることに最終的には気づくのだ。
人間らしさとは?
前作では「カナシミ」と言う感情もまた人間の人格形成に大きな影響をもたらし、それを乗り越えることで人間は成長するのだ。と描かれた。
今作ではそこに、「怠惰」「心配」「羞恥」「嫉妬」と言う、ある意味でネガティブとされる感情もまた、人間らしさを作る上では大切であることを描いた。
ある意味でこれらは前作と今作が変わらない、「良いとされているもの」だけで人間は決して人間となり得ないことを描いたのである。
2度と見られないシーン
と言うことで映画全体の感想としてはこんな感じでなんですが、実は僕としてはこの映画でどうしても目を逸らしたくなる、ある意味で「共感性羞恥」が爆発するシーンがあって。
それがライリーがブリーとグレイスと言う友達と、新しくできたホッケー仲間の間で揺れ動く心理だ。
まずチーム分けの際、ライリーは高校ホッケーチームの先輩に誘われるのだが、ブリー、グレイスと同じチームになるのか、先輩のとこに行くのかで迷う。
こういうリアルにありそうな「どうしようか」と迷うところ、一度はみなさん経験したことはないだろうか?
こう言うリアルな「あったなーこういうの」と言う過去の「あるある」記憶をチクチク刺激されながら物語は進み問題のシーンへ・・・。
と言うのもライリーは先輩たちに誘われ食事をしている際、本当は今でも好きなバンドが、おそらくこのグループ内では「ダサい」とされていることに気づき、ついついそのノリに合わせて、バンドの悪口を言うシーンがある。
それをブリー、グレイスに聞かれて「いや、あなたも好きじゃない」と言われるシーン。
この居心地の悪さたるや。
自分も中学生の頃、部活に入った時、小学生の頃の内輪ノリと部活で見せる顔を変えなければと思っていたが、昔の友達が部活仲間といる僕のとこに来て「そのノリを自分を巻き込んで、こいつらの前でやらないでくれ」と思い、悶えたシーンを思い出して、正直映画を直視できなかった。
要は新しい仲間の前で「こんなノリをするやつ」と思われたくなかったと言うイキリ魂が発動していたのかもしれない。
今となっては、なんと「ダサい」心理かと。
そしてその時新しい仲間を選んでしまい、おそらく傷ついたであろう当時の友達にすまないと懺悔をしたくてたまらない気持ちになってしまった。
当時の友達すいません・・・。
まぁそんなこんなで、ここで映画を見ていた「まるで自分のこと」と錯覚させられ、本気で映画館から飛び出したくなるほど恥ずかしい思いにさせられてしまった。
ただこの「周りに合わせる能力」
こう言う力も大人になればなるほど必要にはなってくるわけで。
そして年を重ねれば、誰もが「場に応じた自分」を作り上げなければならず、人とはそう言うものだ。
と言うことが周囲の人間も理解してくれていて、こうした悩みとはまさに「思春期」特有のものだとも言えるのだ。
こうして恥ずかしい思い、居心地の悪い思い。
それらを積み重ねて人間は成長していくのだから。
こうした思い出も生きていく上では必要だったと教えてくれる作品だったのだ。
すごく居心地は悪かったけどね(笑)
まとめ
と言うことでこの映画僕的には非常にケツの収まりが悪いというか、過去の記憶を刺激してくるタイプの映画で、まともに見てられなかったと言うのが正直なところ・・・。
まぁ完全に過去の恥ずかしい話をほじくり返されたとしか言いようがない。
こう言うエピソードが過去にある人はどうしたって恥ずかしい思いをするに違いない今作品。
ただ、こうした恥ずかしい過去も自分らしさを生み出すキッカケになると言う結末が描かれて、ようやく少し過去の思い出を成仏させることができたのかもしれない。
しかし、まぁピクサーさん・・・。
こんなに恥ずかしい思いをさせてくれるなんて・・・。
やっぱ、あんたらすげぇよ。