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『ピノキオ』から学べること【ディズニー長篇アニメ総チェック#2】

さて今日も「ディズニー総チェック」更新していきます。
ということで、今回はディズニー長篇アニメ2作品目となる『ピノキオ』について語っていきたいと思います。


『ピノキオ』について

基本データ

  • 公開 1940年

  • 監督 ベン・シャープスティーン/ハミルトン・ラスク

  • 脚本 テッド・シアーズ/オットー・イングランダー/ウェッブ・スミス
       ウィリアム・コトレル/ジョゼフ・サボ/アードマン・ペナー
             オーレリアス・バタグリア

  • 製作 ウォルト・ディズニー

  • 出演者 ディッキー・ジョーンズ/クリフ・エドワーズ ほか

あらすじ

木のあやつり人形のピノキオが、相棒のジミニー・クリケットと共に、波乱万丈の冒険に繰り出す。
勇敢で正直で思いやりがあれば「本物の子どもになれる」と言われたピノキオだが、果たしてその願いは叶うのだろうか?

ディズニープラスより引用

なぜ、悪いことをしてはダメなのか? を描く作品

不遇の作品とも言える

この作品は前作『白雪姫』の公開から3年後の1940年に公開された。

今でこそディズニーの歴史を語るのに欠かせない『ピノキオ』
だが、公開当時はヒットには至らず、結果として会社が傾きかけるほどの、大赤字を叩き出してしまったのは有名な話だ。

その一つに作り手が、技術的な向上を目指した結果、どんどん制作費が膨れ上がってしまった点があげられる。
これは逆に言えばこの作品は『白雪姫』から、さらに技術的進化をしているということでもある。

普通、アニメ技術が向上すれば、それだけで観客も増えると思われるが、何故ヒットしなかったのか?
その理由をまずは見ていきたい。

結論から言えば、『ピノキオ』という物語の構成そのものが抱える大きな問題点があったのだ。
むしろ技術向上というのは、その問題点をどうにか「隠そう」とした結果でもある。

この物語は「木製の操り人形”ピノキオ”」が「ブルー・フェアリー」に命を授けられ、「正直で優しい心」をもち「本物の子供になる」ために冒険に出る。
と物語を要約することができる。

この作品を見た方ならわかると思うが、ピノキオは「善悪」の間を、彼自身は、その分別がつかずに、文字通りその間を「行ったり、きたり」と「操り人形」のように流される存在なのだ。

結果としてピノキオというキャラクターには、イライラこそさせられるために感情移入は困難だと言える。
つまり映画として、非常にウケづらい、乗りづらい物語なのだ。

当然そのことを作り手は百も承知だった。

だからこそ、映像的・視覚的なイメージを作り、『ピノキオ』という物語の持つ弱点。
つまりピノキオの魅力が乏しいという点をなんとか補おうとした。

その結果、『白雪姫』からは技術的には向上した作品を生み出せたが、観客ウケのいい作品にはならなかった。
その結果、映画としてはヒットせずに、大赤字という結果に終わったのだ。

ちなみに僕は『白雪姫』と『ピノキオ』の最大の違いは、「登場人物」の多さであると感じた。

『白雪姫』は確かに動物などの数は多いが、それでも登場する人物が少ない。
白雪姫、継母、その部下、王子様、7人の小人。
そのため『白雪姫』は非常に「限定的な世界」の物語だと感じた。

それが「童話的」と言えば「童話的」とも言えなくはないし、この「限定的」な感じが『白雪姫』の独特な魅力とも言えるので、ここは判断の難しいところだ。

それと比較すると『ピノキオ』は非常にモブキャラの数が多いのだ。

例えばピノキオに命が吹き込まれた次の日の朝、そこで出てくる子供の数。
また「ストロンボリー」の移動式見世物小屋に集まる人の多さ。
さらには「プレジャー・アイランド」で集められた子供の多いこと。

これらの登場人物が「存在していて」そのことが、この世界の「広さ」を見せてくれる。

この点は『白雪姫』との大きな違いだろう。

また擬人化された狐の「ファウルフェロー」
猫の「ギデオン」などは、ディズニーがこれまで手がけてきた「シリー・シンフォニー」という短編。
特に『三匹の子豚』などで培った技術を、長編に持ち込んでいる。

のちに体系化される「擬人化された動物キャラ」ジャンル。
これはディズニーのお得意戦術になるが、これらの礎を長編に落とし込んでいるのも見事だ。

ちなみにこの点を掘り下げると、「ジミニー・クリケット」というコオロギを擬人化して、ピノキオとバディに据えたのもこの作品にとっては大きな成功点だろう。

ちなみに原作でコオロギは、すぐに死ぬ。
そんな存在をメインに添える際、ウォルトは「可愛くもない虫ケラを、どうやって愛嬌ある登場人物にするのか?」というのに苦慮したという逸話も残っている。
ジミニーは、その難題に応えた「ウォード・キンボール氏」の技量の賜物でもあるわけですが。

とにかく、このジミにー無くしては名曲「星に願いを」もなかったわけですから。
この点はやはり特筆すべき点だとも言える。

そうそう、先ほどから話しているシリー・シンフォニー (Silly Symphony) について少しだけ深堀しておこう。

これは、ウォルト・ディズニー・カンパニーによって製作された短編アニメーション映画作品シリーズだ。

1929年の『骸骨の踊り』 (The Skeleton Dance) に始まった本シリーズは、ミュージカルの取り込みを基本に、新しい脚本の方向性や製作技術など斬新的な試みが積極的に導入されていた。
3色カラーを初めて用いた作品である『花と木』 (Flowers and Trees)
おとぎ話を題材とした『三匹のこぶた』 (Three Little Pigs) が有名だ。
またドナルドダックのデビュー作である『かしこいメンドリ』(The Wise Little Hen)なども含まれているのだ。

さて、話を戻すと、『ピノキオ』という物語が持つ、そもそもの弱点。
それらを補うための工夫など。

それらはすぐには功を奏したわけではないが、後のディズニー作品制作にあたっての大きな財産となったのも事実だ。

そういう意味では、『ピノキオ』もやはりディズニーの歴史を振り返る上では非常に重要な作品だと言える。

裁かれない3人の悪人

この作品はディズニー作品の中でも変わった作品だ。
ある意味では「映画」「物語」としても変わっていると言ってもいいだろう。

基本的にディズニー作品ではメインの「悪」つまり「ヴィラン」は1人なのだが、今作品ではそもそも、その数が多い。

人攫いをする狐の「ファウルフェロー」と猫の「ギデオン」
そして見世物小屋を営む「ストロンボリー」
さらには、子供を攫ってロバに変えて売買する「コーチマン」

そして重要なのは、彼らは誰1人として「裁かれる」こともなければ「討たれる」わけでもない点だ。

それは「子供向けだから」とか、「人の死を描きたくない」という発想からきているのではない。
なぜなら前作『白雪姫』では、ヴィランである「継母」は崖から転落し「死亡」するという、報いを受けさせているからだ。

つまり前作は、きちんと「罪」に対する「罰」を描いているのだ。

だが、今作では誰も報いを受けない。
それは何故か?

この『ピノキオ』という物語は「なぜ悪いことをしてはならないのか?」そして、「良い子にならなければならないのか?」
ということを物語を通じて、子供に教える作品でもある。

「嘘をついてはいけない」
「学校にいかなければならない」
「遊んでばかりではいけない」

この「いけない」ことをすると、そこに「こうなる」という理由がついているのだ。

例えば、嘘をつく、すると鼻が伸びる。
学校に行かないと、見世物小屋で酷い目に遭う。
遊んでばかりいると、最後はロバにされて、売られる。
全てが教訓のように描かれているのだ。

ちなみに余談だが、『仮面ライダー鎧武(2013年〜2014年)』で脚本を努めた虚淵玄が、この作中で「悪い子」になってはいけない理由こそを、一番強調して描きたいと言っていたことを、『ピノキオ』を見ていて思い出した。

鎧武、本編の第43話以下のようなセリフが描かれ、虚淵玄はここがこの作品で最も重要だと、後のインタビューで答えていたので紹介しておこう。

「貴虎に教わらなかったのか?何故悪い子に育っちゃいけないか。その理由を。嘘つき、卑怯者…そういう悪い子供こそ、本当に悪い大人の格好の餌食になるからさ!」

仮面ライダー鎧武 第43話より

確かに「いけないこと」をすると「こうなる」だから「だめ」ですよ。というのは「善悪」の分別のつかない子供であるピノキオ。
そして、この作品を見ている子共には、これでも大きな教訓になり得るはずだ。

だだこの作品を、僕ら大人が、その目線で見ると、そのことよりも大きな教訓が描かれていることが見えてくる。

それは「悪人」が、誰1人として罰されないことだ。

例えば、昨今人気の『半沢直樹』は悪を討つ、そこに物語最大のカタルシスをおいているわけだ。

しかし実際の現実では「悪」は必ず「討たれる」わけではない。
むしろ「悪が必ず討たれる」ことこそ「フィクション」だということを我々は知っている。

つまりこの『ピノキオ』において「悪人」が罰されないことは、ある意味で現実をリアルに描いているとも言えるのだ。

これは、ある意味で教育として、世界にはどうしようもない悪がある。
そしてそれらは、日常的に世界に蔓延っている。
そのことを突きつけているということだ。

このことには、今の大人になった目線で『ピノキオ』を見返したからこそ気づいたことだ。
この作品は、現実にある厳しい側面をありありと描いていると言えるのだ。

名曲『星に願いを』

さらに今作では、ディズニーを語る上で欠かせない楽曲「星に願いを」を生み出したのも最大の功績だと言える。

この『星に願いを』のちに、ディズニー作品のアバンタイトルで必ず流れる、ディズニーを象徴する楽曲の一つとなっている。

輝く星に 心の夢を祈ればいつか 叶うでしょう

『星に願いを』より

この作品ではゼペットは「子供が欲しい」と願い、その結果「木製の操り人形」である「ピノキオ」に命が授けられた。

だが、そこからピノキオが、本当の子供になったのは、紆余曲折はありながらも、彼自身の努力や、気づきがあり、周囲の尽力があったからだとも言える。

この楽曲は「願う」その「願いが叶う」奇跡の美しさを描いている。
でも、この作品はそこにあぐらを描かず、それに加えて、自分の力で歩くということも重要なのだ。というのを描いている。

ここが「ただ祈る」それが「叶う」という単純な話では終わっていないのも、個人的にはこの作品の良い点だ。

まとめ

ディズニー作品を制作順に見ることで気づくのは、その技術の向上だ。

例えば「木製操り人形」のピノキオ。
命が吹き込まれながらも「人形である」ピノキオ。
そして「本物の子供」になったピノキオ。

それらが段階を踏むごとに、非常にうまく描き分けられているのだ。

このあたりの描き分けも「アニメ黎明期」において、ここまでの技術レベルが高いのは驚きだ。

そして今作品は「子供目線」「大人目線」で教訓になることが違う。

「悪いことをすれば、こうなる、だから止めよう」という視点。
これは子供視点だ。
大人視点になると「悪人は世に蔓延り、討たれることはない」という、悲しいが、世の中の本質をつくものになっている。

特に後者の視点は、僕が大人になり『ピノキオ』を見たからこそ気づいたことでもある。

こうした気づきを発見しながら、今後も総チェックをしていきたいと思うのであった。


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