『哀れなるものたち』がめちゃくちゃ面白い!
今回は本年度アカデミー賞でも作品賞を初め11部門にノミネートされるなど、大注目の作品『哀れなるものたち』
こちらの作品の感想を語っていきたいと思います!
『哀れなるものたち』について
作品紹介とあらすじ
監督 ヨルゴス・ランティモス
脚本 トニー・マクナマラ
原作 アラスター・グレイ『哀れなるものたち』
出演者 エマ・ストーン/マーク・ラファロ/ウィレム・デフォー 他
あらすじ
体は大人、頭脳は子供!
この作品はメアリー・シェリーが、1818年に発表した小説『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』が大きく影響を及ぼしている作品だ。
ちなみに多くの方々は「フランケンシュタイン」と聞くと「怪物」であると誤解しがちだが、「フランケンシュタイン」は怪物を生み出した「博士」の名前なので、これは誤解なきように・・・。
さて、今回の作品は「ゴット」と呼ばれる博士によって、若くして死んだ女性が再び「ベラ」として「生」を授かる話だ。
しかも、これは中盤以降で明らかになるがこの若くして死んだ女性は「妊婦」だった。
そこで博士は妊婦の体にお腹から摘出した胎児の脳みそを詰め替えて、生まれ変わらせたのだ。
このパート、ゴットの顔に大きな傷がいくつもあること、脳みその移植のシーンや、魔改造された鳥などなど、割とホラー味の強いグロテスクな生き物が多く登場し、ゴットたちの異常性が垣間見られる。
ただしこの映画あくまでホラーではなく、コメディであるために、ゴット博士のゲップのシステムなど、あまりにも馬鹿らしいギミックも見どころだと言える。
そんな博士に作られたベラは逆コナン状態であり「体は大人、頭脳は子供」なのだ、いや正確に言うと「頭脳は幼児」といった方がいいのかも知れない。
とにかく物語の冒頭に出てくるベラは、外見は立派な大人なのだが、「嫌いな食べ物を口から吐き出す」など、外見と行動の不一致感が違和感となり、それが非常に恐ろしも、ただ余りの行動に笑いすら込み上げてくる。
ちなみに今作は全編がこうした「笑わざるを得ない」コメディタッチにもなっておりシュール・ホラーな要素を多分に含んでいるのも特徴だ。
さらには今作品、恐らくベラの世界の拡張、つまりは成長によって世界が「色づいていく」ことを表現するために、物語の冒頭は「モノクロ」で世界が描かれている、そしてこのモノクロであることが、往年のホラー映画を彷彿とさせるようになっていて、そこも非常に見応えがある。
通常とは真逆の成長と性長
ベラは先ほどから言うように「体は大人、頭脳は子供」だ。
だからこそ、通常の人間がする成長の過程を逸脱した歪な成長をする。
そもそも人間は身体の成長をしながら、思考や心という内側の成長をする。
そして「常識」のようなものを学びながら、社会的な生き物として自立していく。
例えば家の外で他人の前で裸でいることは恥ずかしい、そんな社会常識を身につけるから服を着ないといけないと学び、服を着るようになる。
しかし心身が成長した思春期の頃から、人前で裸にならないといけない行為に興味を持つ。
そして今まで身につけた社会常識と、自分の欲望が抑えられずに不安定な時期を迎え、また成長をしていく。
しかしベラは違う。
もう身体は成長しきっており、そのため社会的な常識を持ち合わせる前に性的興味に目覚めて、人前でもところかまわずに欲望のままに行動をしていく。
見た目は立派な大人だが、やっていることは欲望に忠実、この姿が生々しくも、しかし同時にあまりにも非現実的で笑えてしまうのがこの映画の凄い所でもある。
そして、そんな行動が逆にマックスやダンカンという男たちを惹きつけていくのだ。
その後物語はダンカンがベラを連れ出し愛人のように囲いながらスペイン、アレクサンドリア、フランスと世界各所を旅していくパートに突入していく。
ここで描かれるのは旅をして世界を知ることでベラは成長をし、内面が変化していくことだ。
つまり普通の人間と違い先に性的な興奮を覚え、それに一時期は夢中になるものの、そこから「教養」などを学び、知性的な大人へと成長していくのだ。
ダンカンはそんな普通の人間に近づくベラを非難するも、しかし彼女の魅力からは逃れられず無様な姿を見せていく。
このパートの面白さは、ある意味で「夢」的な世界描写だ。
無駄にカラフルで、この作品の舞台の時代(原作ではヴィクトリア朝)にはあり得ない乗り物などが普通に存在している。
いく先々の国々の様子は描いているものの、でもどこか違和感を覚える。
まさに「夢」のような世界観で描かれていく。
そんな夢の世界でベラは少しずつ成長をしていく。
この世界観だからこそ、成立する「フェミニズム」メッセージ
さて、この映画は最終的にベラの、男にも求められる女性像から脱していく、一種の「フェミニズム映画」として描かれていく。
特にダンカンは「女性は勉強しなくていい」とか「こういう風にしていろ」というように、「女性とはかくあるべき」ということを高らかに主張する。
さらにベラの生前の夫であるアルフィーとの対峙。
彼は残虐なDV旦那であり、ベラの性器を切除しようとする。
そんな非道な男を返り討ちにする様も見事だ。
ある意味で、女性をもの扱いする存在に「自分は自分だ」
もっというと「性の使い方も自分で決める」ということを突きつける。
「自分の生き方」を突きつける、この流れが非常に見応えのあるものになっている。
ただ、この作品が難しいのは、ベラがフランスで娼婦になる流れだ。
ダンカンが破産し、一文無しになりお金を得るために娼婦になる。
そこでベラはもちろん売春をしているが、その中でも彼女は彼女なりに、自分生き方を確立していく。
確かに見方によれば、ベラが「自分の性は自分で活かす」という風にもみええるが、とはいえ彼女も状況によって「売春」をせざるを得ない状況で、搾取されているとも取れる。
この辺りの解釈でこの作品の後味が大きく左右されるのは間違いない。
恐らく作り手も意図的だろうが、解釈がブレるようにここは描かれているのも特徴だ。
そして今作が、とはいえ特殊な設定・世界観の上で成り立っている。
つまり、この映画の中であるからこそ「説得させられてしまう」部分も大いにあるということだ。
最後にある意味でゴッドの後を継いで、一家の大黒柱のようになるベラ。
アルフィーの脳をヤギの脳に移植し飼い慣らすなど、ゴッドの猟奇性も受け継いだベラ。
起きていることは、あまりにもグロテスクな状況なのだが、しかしそこに不快感はなく、むしろ爽快ささえ見えるのは不思議なものだ。
「哀れなるものたち」
最初は胎児の脳を移植されたベラのことに思えたが、そうではない。
他人を尊重できないもの、他人を理解しようとしないもの、それらが「哀れ」なのだ。
そして、こうした要素は我々の中に少なからず潜んでいるのだ。
まとめ
ということで、非常に変で不思議な作品であるが、終始笑えるブラックコメディのように楽しめるのもこの映画の特徴だといえる。
最初はマッドサイエンティストのゴッドの行動で生み出されたベラという存在を哀れだと思って見てしまうが、実は彼女の周囲で彼女をコントロールしようとする支配的な男こそ「哀れ」であるという、まさに現代のフェミニズム映画として、突き刺さるメッセージ性を内包している今作品。
非常に現代的なメッセージに富んでおり、しかもエンタメとしておもしろい。
見事なバランスで描かれている、今劇場で見られる映画の中では間違いなく一番面白いと言えるし、もしかすると今年ベストの作品とこのタイミングで断言しても構わないレベルの傑作になっているので、ぜひご覧いただければと思います。