音楽日記 横浜Thumbs up vol.1

どうぞどうぞ

弾き語りのワンマンライブを企画しました。
会場は横浜サムズアップ。そうなんですよね、僕にとっては、「ここぞ!」という時にライブする場所で、ツアーファイナルにバンドスタイルでワンマンライブをするような、とっておきの場所なんです。
去年、コロナ禍の中、2本だけカフェライブをして、10〜15名くらいの定員で、「私よりもっとユーマさんのライブ見たい人、きっといるのに行っていいんですか」という、ありがたすぎて、申し訳なくて、嬉し恥ずかしそんなことないですよっていう声を聞きました。チラホラですけど。生音のライブに飢えているのは、やる方も見る方も同じですね。他の人に譲りたい気持ち、「どうぞどうぞ」の気持ちって、あったかいなと思いつつ、僕が見る方だとしても、きっと同じように遠慮がちになると思う。それはもったいない。以前ね、ちょっと首を傾げて、微笑みながら「きちゃった」と。「た」の後に、「❤️」と「❗️」がくっついてる感じで来てくれた方がいて、それを聞いたバンドメンバーの嬉しそうな顔ったら。それが良かったんですよねー。ま、僕もだらしない顔してたと思いますけど笑。とにかく、「ライブに来たよ」ということが、ただただ素直に嬉しいことであって、来れない他の人への遠慮にならないライブがしたくて、サムズアップというとっておきの会場にお願いしました。どうぞどうぞと譲ることなく、気兼ねなく、見に来て欲しい。小首、傾げて「きちゃった❤️」は、前フリでもなく、ねだってもないですから。ホントにホントに。

定員は60名、通常の50%以下

130名入れる会場で、60名様まで定員を抑えて開催します。全席自由席。テーブルもあるので、必然的に距離を保てると思います。窓はないですけど。2時間の公演で、21時には終演の予定です。食べ物、飲み物、酒類のご提供もあります。飲食中を除いて、マスクをご着用頂きたいと思います。僕はマスク着用なしで演奏します。
ライブの日まで、より体調に気をつける良いきっかけにしてもらって、2月の1番の思い出にしたい。
※終演予定時刻を訂正しました!

横浜ミュージックと僕の歴史

僕が高校生だった1990年代、横浜にはclub24、7th Avenue、F.A.Dという、僕の好きな3大ライブハウスがあった。ロック、パンク、メロコア、ハードコアが多かった時代。僕はF.A.Dにお世話になってた。
白黒のタイル、ビールの空き缶、傷だらけのコインロッカー、破れたソファー、楽屋の壁にサインとパスステッカー、便器に敷き詰められた氷の山、タバコの煙、凹んだモニタースピーカー。どこもそんな感じだっだと思う。ライブハウスは客がいなければ、静まり返って、ただの廃墟だった。著しく生命力の低い場所で、とてもいい空気の場所とは思えなかった。そこに人が集まって、エネルギーが爆発するから不思議な場所だった。
当時、僕の周りでは、ライブハウスでアコギを弾く人は珍しくて、F.A.Dに出演した時、エントランスでアコギを弾いてたら、ブッキングマネージャーさんが「君は弾き語りでライブしたらいいよ」と言った。それがきっかけで弾き語りライブを始めた。大学卒業したての2005年頃のこと。余談ながら、その頃はね、ライブしたらブッキングマネージャーに挨拶に行って、ダメ出しをもらうという儀式があった。かなり上から目線で言う人も多かったから、バンドのメンバーがライブの帰り道に怒って怒って困ったことがあるくらい。みんなでいじけてラーメン食べて帰ったこともある笑。
2006年、逗子のスタバでキマグレンの井関くんに再会した。なんとF.A.Dの姉妹店club Lizardで「イベントをやってるから出なよ」という。即答で出演を決めて、会場に行ったら本当にたまげた。竹本健一さんがやってたphonesというバンドがリハーサルしてて、てっきりCDが流れてると思ってドアを開けた僕は、そのまま閉めて帰ろうかと思うくらい、上手くて凄くてカッコよかった。もう一人すごい出演者がいて、湘南探偵団を解散したばかりの佐藤嘉風くんだった。派手に見せることがないのに、華があって。少し猫背気味の佇まいから、同世代とは思えないくらい、アコースティックギターがうまかった。それまでGibsonのレスポールを低く構えて、Marshallのアンプをとにかくデカい音で弾いてた僕は、恐る恐るアコースティックという世界へ踏み入れたのでした。カントリー、フォーク、ブルース、ジャズといった、ルーツミュージックを聴くようになったのはこの頃からだったと思う。
そして、同じ横浜にあるのに、全然足を踏み入れてこなかったサムズアップと出会うことになる。それは次のnoteで書きます。今日はこの辺で。

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