ウサギと亀のお話し
以前自分自身の新卒時代の経験について記載した。
ちょっとだけ、その経緯やそれに至るまでの過去の振り返りから記載していきたいと思う。
漫然と過ごす学生時代
日本においては皆さんも大なり小なり経験があると思うが、とにかく比較され続ける社会に自然と身を置いていると思う。
私もそんな社会の中で自然に人と比較して優劣を勝手に認識し、○○は優れている、○○に勝った、○○は負けて悔しいといった感情を抱きながら過ごしていたと思う。
特に高校生くらいまでは、知識詰込み型の教育の中で、正しいと世間的にあるいは教科書的に定義されている回答を記憶し正確に答えていさえすればなんとなく優秀という定義になっていて、率直に言ってそれは生きていくうえでは役立つことはあるかも知れないが「生きる力」そのものに必ずしも直結しない可能性もあるようなものをただ漫然とやり過ごす、自分もまさにそんな感じだった。
そして、そんな世界で無難に過ごしてきた自分にとっては、正解をなんとなく優等生らしく答える形で真面目に振る舞っていれば比較的周りからも評価されやすく、生きやすい、そんな価値観にどっぷりはまっていたと感じる。
拠り所の無い不安
ところがだ、社会人になった途端、もはやそんな優等生的なふるまいや過ごし方、考え方では、とてもじゃないが立ち行かなくなるようなそんな感覚に襲われた(気がする)。
特に周りを見渡せば、約300人ほどの同期達は、世間一般で言う有名大学卒業はもちろんのこと、やれ留学だの、インターン経験だの、スポーツで秀でた成果をあげているだの、もう学生時代に起業しているだの、、もう華々しいご経歴や経験の数々をひっさげた人たちがゴロゴロいて、あるいはそうじゃないにしても泥臭く自分のしたいことの実現に向けて会社で成り上がろうとする気概に溢れている人達を目の前にして、正直言って気がめいってしまっていた。
そして、仕事自体そのものも、ベンチャー企業ならではのどんどん伸びている市況の中で、即時戦力化を求められるような空気感の中で新卒も中途も関係なく結果を随時求められるような厳しい環境(これは振返ってみると感謝しかありませんが)であり、同期と比較しても劣等感・会社という見えない空気感の中での結果を求められる圧力(これは完全に妄想も入るが)という狭間の中で自分を見失ってしまうようなそんな感覚に日々襲われている気がした。
結果が出ない自分を認めるのが一番怖い
とにかく数値を求められる会社の中で、常に同期とも比較され、あるいは会社全体の同じ職種の中での位置も明確に可視化される所属部門で、日々の大小、様々ある指標に追われている中で、なんとか乗り切っていく、すれすれのところでなんとか食らいついていく形でのらりくらり過ごしていたが、、、ついに限界。眠れなくなる状態へ。
なんとか慰めあっていた同じ支社配属の同性の同期が先に退職してしまったのも大きな要因ではあると思うが、とにかくこれまで、主に学業の中で特筆して”できない”という感覚にも、周りからの評価にも遭遇してこなかった(結論としてはたまたま、うまく乗り切ってきただけだが、、、)自分にとって、明確な劣位を感じること自体が本当に苦しかった。
結果が出ないことを比較することで、できない自分を認めるという行為がとにかく恐ろしかったのだと思う。なぜならばそれはそれまで培ってきた自分の存在自体を否定することに限りなく近いから。
とにかく小さな器でしかないのだが、比較することでしか自分の存在意義を見出せなかったのだなと。常に比較のある社会の中で、自分の立ち位置を認識して、そこに居ることを認めてもらっているようなそんな状態。
恥ずかしながら自分は完全にこの呪縛の中でしか過ごせていなかったわけだ。だから、とにかく周りとの比較の中でできない自分を認めるのが怖かった。そこに自分に対する焦点は無く、絶えず周りとの比較がそこにあるだけだった。
休職から復職へ
休職期間は約半年。長いのか短いのか、制度的な上限など色々あるが、自分にとっては完全に戦意喪失期間。最初は親に伝えることもできず、1人でただただ漫然と過ごす日々。でも途中で、ふと実家に帰ることとして、約3か月間ほど学生時代に戻ったような感覚で好きだったこと、例えばゲームとか漫画とかそういうことに時間を費やした記憶がある。
変かもしれないが、自分は会社が嫌いとか、どうしても戻りたくないとかそういう感覚は無かった。あったのは自分への恐れ。また同じようにできない自分に遭遇するのは明白で、そんなときに自分とちゃんと向き合えるのだろうか?というその不安がずっと頭をよぎる。
身体的にはちゃんと眠れるし、深刻な状況でもないように自分でも感じていたが復職の判断については先送りがずっとされていた。これは賛否両論あると思うが、この手の病気の中で医師の判断が絶対なものではないと感じてしまったのはこの時の経験から来た部分もある。
制度上の期限があり、医師を半ば押し切る形で復職へ。この時不安が無かったわけではない。事後の話だがまた何度も逃げてしまったこともある。だけど、この時の判断を間違ったものにしたくないから頑張るという意思があった。
復職後の想像を超える苦痛
まあ、だいたいわかっていることではあるが休職経験者が復職する場合って職場の方からすれば腫物を触る感覚に近い。それって被対象者からすれば嫌でもわかることであって、気遣いを受けながら過ごす日々。もちろん大変ありがたいことだったし、自分もとにかく日々葛藤を抱えながら過ごしていたのでいろんな配慮やサポートは救われた。
ただ、やっぱりわかった。自分はできない。もちろんすべてではない、手前味噌だが得意な分野もあったし、人の助けになることもあったと思う。だけど、会社にとって必要なのは求められた成果を出すこと。ここに対して私はできない。悔しいけど、できないことが多い。
そして、そんな自分に言い訳しか出せないという意味で圧倒的にきつい。相変わらず自分に焦点を当てるのではなく、外部環境、要は他責思考で自分の立ち位置をなんとか決めているダメダメ社会人の典型であった。そしてそれが分かっているのに変わろうとしない、変わりたいと思ってはいるのに行動は最終的に変えられないという感覚。これを同居させながら日々仕事に向かうってとにかく苦痛。
なんで自分にこんな期待しているんだろう、何も期待してなかったらこんなに苦しむこともなかったのになっていう辛さと、半年という期間で更に成長して果てしなく遠くへ行ってしまったような同期。またそこと比較して自己嫌悪の繰り返し。これ本当にどうしようかっていう日々だった。
せめてもの自分への投資
もしかしたら、逃げる感覚に近かったというか、要は現実逃避という位置に近かったのかもと思うが私は自分を変えたいという一つの行動として読書に勤しんだ。自己啓発本、ビジネス書、とにかくこの辺りの本を週末に手あたり次第買っては読む。そこで仕事への意欲を上げてなんとか週初に立ち向かう。そんな感じ。
本を読んでいるときは高揚して、自分がさもできるかのようになった感覚。これを得ることでなんとか自分のバランスを維持しようとする防衛本能だったのかもしれない。とにかく本を読むこと自体が楽しくて、それは続けていた。
そんな中で出会った本の中で”自分と向き合う”ことに関する本に出合った時だ。やっと表題の話になる。そう『ウサギと亀のお話し』に紐づける形で自分に重ね合わせたできことがあった。
自分は足も速くないウサギ
この投稿でも繰り返し書いているが、私は他人と比較することで立ち位置を明確にし、ある種の存在の証明をしていた。だけど、自分に向き合うということを端的に示してくれいたのがウサギと亀の寓話だった。
どういうことかというと、ここからは完全に私の解釈だが、この寓話の中でウサギは常に亀のことを見下したりする発言をして、亀の様子を見ながら競争していた。ウサギが見ていたのはゴールではなく競争相手である亀。
一方で亀はまっすぐにゴールを見ていた、おそらくウサギのことなんて目もくれずにただひたすら目指すべきゴールを。つまり、自分が目指すべきゴールに対して今自分がどこにいるのかは確認していたと思うが、他のことなんて気にしてないし、もちろん気にしている余裕なんてなかったのかもしれない。あるいは気にするだけ無駄だったのかもしれない。
でもウサギは亀のことばっかり見ているから、そこに対して勝っているかどうか、どれくらい優位な差があるか、お昼寝していても問題ないかなどゴールに向かうことに対しては本来どうでも良いことに対して意識を割いている。
翻って自分はどうだろうか?もはやそのウサギですらない、、、
ウサギはそれでも足は速い。だけど自分はそもそも競争の中で速くもないし、勝てる見込みがあるわけでもない存在だ。足の速くないウサギ。
にも関わらず、相手(同期とか会社のその他の人々とか)ばかり見ていて、できる・できないのことばかり考えてしまっていた。
本来は自分にとって目指すべきゴールを明確にし、そこに向かって自分がどう進んでいるか、仮に比較するとすればそれはその道を通ってきている過去の自分のみのはずなのに。
そこはもう勝ち負けでも、時限的なものがある中でのスピードでもなく、自分が目指すところを見続けられているかの亀状態になれるかという所だけ。
完全に見るべき対象を誤っている自分に気づくことができたのだ。それは折しも現実逃避のために読んでいた本に教えてもらう形で。
競争は否定されるものではない
矛盾するようだけど、他社との競争自体は否定されるものではない。ある種マイルストーン的に自分のチェックポイントとしても有効に活用できるはずだ。
だけど、本当に競争しているのは誰だろう?それは繰り返しになるが過去の自分のはずだ。超えたいのは過去のできなかった自分であり、挑戦しなかった自分かもしれない。その自分と向き合わせずして他人との競争なんてできるだろうか?
ちょっとずつ自分を変えるリハビリ
まるでわが意を得たりのような、ことを書き連ねているが、もちろんそんなことは無い。そしてそんな簡単に気持ちが変わるものでもなかった。ただ間違いなく言えるのはこれは大きなきっかけとなったこと。
その時、ひとつ、取組み始めたこととして、日報を改めて書き始めていた。また手書きの手帳に日々書き留めていたことがあった。まさにそれは自分を振り返るためのツールとして。
そうすれば過去の自分と比較できると思ったから。現実的には常につぶさに振り返るわけでもないのだが、何かに記録しておくということ自体が脳の中で反芻を起こす引き金となり、内省して次へ向かうという癖をつけるには十分に機能するものになったと感じている。
またコツコツ些細なことでも続けることで、自信になった。何か一つのことを、内容は全く関係なく続けることってとてつもない自信になった。これができたんだから、○○もできるかもしれない。そんな感覚を得られるような気がしたからだ。
その後も社会人生活の中でまた、人生という意味でも大きな経験を幾度かすることになるのだがそれはまた別の機会で書きたいと思う。
こんな私ですが、現在LR株式会社という鹿児島の会社にいます。
入社からこれまでの振り返りも書いているためご興味ある方はぜひ。
また、LR株式会社に興味をお持ちいただいた方や地方創生に関心のある方ともカジュアルに面談の機会もいただければと思っていますので以下もご確認下さい。
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