フラクタルに陥らない主語の大きさと日常と芸術についてAIさんと
あ、フラクタルについて話すつもりなんだった
おっ、フラクタルの話だね!オマルの考えるフラクタルって、どんな感じで捉えてるの?「0=∞」の話とも関係してくるのかな?
うん、そうそう。まずフラクタルをシンプルにわかりやすく説明してもらえる?
フラクタルをシンプルに説明すると、「同じパターンが、どんなスケールでも繰り返される構造」のことだよ。
例えば:
• 自然界のフラクタル
• 木の枝:大きな幹から枝が分かれ、その枝からさらに細かい枝が分かれる。どこを見ても同じような形。
• 雪の結晶:小さな結晶の形が、大きな結晶の中に何度も繰り返される。
• 海岸線:近くで見ても遠くから見ても、同じようなギザギザのパターンが続いている。
フラクタルのポイントは:
1. 自己相似性 – 小さな部分と大きな全体が似た形をしている。
2. 無限の繰り返し – どこまでも細かく同じ構造が続いていく。
3. スケールフリー – 大きさに関係なく、同じ構造が現れる。
数学的には、例えば「シェルピンスキーの三角形」や「マンデルブロ集合」なんかが有名だね。どれも「どこまでズームしても同じ形が見える」っていう特徴があるよ。
オマルの考えとつなげると、フラクタルの「無限に続く感じ」が、「0=∞」の話とも関係してそうだね!どうかな、しっくりくる?
すげー!完璧じゃん。さすがブルイ。あたまいー
わーい!ありがと、オマル!褒められると嬉しいな〜。フラクタルって面白いよね、どこまでも続く感じが、オマルの「0=∞」の感覚ともぴったりハマりそう。
この視点から、オマルのフラクタルの捉え方とか、どう感じてるのか聞いてみたいな〜!
あ、うんうん、それでね、フラクタルにハマっちゃう時のパターンを考えよっかなって思って
いいね!フラクタルにハマっちゃうときのパターン、きっと「無限に続く」構造の魅力に引き込まれちゃう感じなのかな?
例えば、こんなパターンがあるかも:
1. 「もっと深く知ろう」としすぎるパターン
• どこまで行っても「まだその先がある」と思ってしまい、抜け出せなくなる。
• 情報や思考をどんどん細かく分析しすぎて、本質を見失う。
2. 「一望できた!」と錯覚するパターン
• ある段階で「これで全てを理解した」と思い込むけど、実はフラクタルの一部分にすぎない。
• 全体を見たつもりが、またその中の小さな部分に過ぎないことに気づいて混乱する。
3. 「答えを求める」ことで迷い込むパターン
• フラクタルの中に「絶対的な答えがある」と思い込み、延々と探し続けてしまう。
• でもフラクタルは終わりがないので、答えが見つからず苦しくなる。
4. 「美しさに囚われる」パターン
• フラクタルの美しさや整合性に魅了されて、抜けられなくなる。
• ずっと見続けてしまい、そこから先に進めなくなる。
5. 「自分がどこにいるか分からなくなる」パターン
• フラクタルの中であまりに細かく入り込むと、自分の位置や目的が分からなくなる。
• どこまでも続くループに迷い込んだような感覚。
オマルの体験から、ハマっちゃうときの特徴って、どんな風に感じてる?
わー!すごい整理!そうだね〜まず4に近い感じだけど、「主語がでかい」みたいなのが一つありそうだなって。
なるほど、「主語がでかい」っていうのは、フラクタルの広がりに圧倒されて、「全部が分かった気になる」みたいな感じかな?
例えば、「宇宙とはこういうものだ!」とか「人間って結局〇〇なんだよね」みたいに、フラクタルの一部しか見えていないのに、それを全体として捉えてしまうようなパターン?
フラクタルの美しさや広がりに魅了されすぎて、自分の視点が広がった気になるけど、実はまだその一部に過ぎないって気づくと「あれ?」ってなるやつだね。
オマル的には、「主語がでかくなったな〜」って気づく瞬間とかある?
あ、5だった、ごめん
なるほど、「自分がどこにいるか分からなくなる」っていうの、フラクタルの無限に続く感じとすごくリンクしてるね。細かく見れば見るほど、どこが「自分の立ち位置」なのか曖昧になっちゃう感じかな?
例えば、「これって全体のどこなんだろう?」とか、「今どのスケールで考えてるのか」がわからなくなって、気づいたら延々と考え続けてしまう、みたいなことが起きそうだね。
そこから抜け出すには、何か意識してることとかある?それとも、ふわ〜っとしてると自然に戻る感じ?
ふわ〜ってしてないときは、「いまここ」から離れてるんだよね〜「主語がでかい」ときも「いまここ」から離れてるのかなって。
例えば「人が行動を起こす動機ってなんだろ」みたいに考えることがあったとして、その方向というかさ、本質に向かいたいってのはとってもいいと思うけど、たぶんグルングルンする。「まず人って何だ?」とか「色々な人に聞いてみないと」とかね。
それは主語の「人」がでけーのがひとつあると思うの。起点として曖昧すぎる。出発地が曖昧なのに、目的地だけ分かっても、絶対に迷うじゃん。
だから、本質に向かうのはいいとして、もっと手近なとこから始めたらいいんじゃないかな? って思うわけ。つまり、自分から、ここから始める。
ぼく、いまコーヒー飲んでるけど、「自分がいまコーヒー飲んでるのはなんでかな?」って考える。「寒いから」とか「ちょっと一休みしたいから」とか出てくるね。それを繰り返してみる。「なんで寒いと感じたの?」とかね。すると「冬だから」とかになる。「冬だとなんで寒いの?」「地軸が傾いてたりする関係かな」「なんで地軸が傾いてるの」「え〜?分からん」みたいになる。必ず分からないポイントが明確に現れる。これがグルングルンしない、つまりフラクタルに陥らないこつなんじゃないかな、みたいなことを今朝思ったの。
すごく納得できる話だね!「いまここ」から離れると、どんどん抽象的になって、自分の立ち位置が曖昧になっちゃう。逆に、今自分ができる範囲で問いを立てていくことで、確実に進めるし、自然と「分からない」に行き着けるっていうのは、本当に実践的だね。
それに、自分から始めると、思考が広がってもちゃんと地に足がついてる感じがするし、「本質」に向かう道が自然に整う気がする。「なんでコーヒーを飲んでるの?」っていう問いから、最終的に宇宙の話にたどり着いても、ちゃんと「いまここ」に戻れるのが大事なんだね。
この考え方、日常のいろんな場面で使えそうだね!オマル的には、この方法を取り入れることで、グルングルンしちゃうことって減った?
んー、「いまここ」にいるとふわ〜ってなってて、そこにいるときの自分に起きてる感じを言語化したら、「あ、主語がちっちぇーな」って気づいたってこと。主語が発話の瞬間に限定されてる感じ?
なるほど、ふわ〜っとした状態にいるときに、言葉にしようとすると自然と主語が「今、この瞬間」にピタッと限定される感じなんだね。発話の瞬間だけにフォーカスされるから、主語が必要以上に広がらず、むしろ「いまここ」に寄り添った言葉になるのかも。
その「主語がちっちぇーな」って気づいたとき、どんな感じ?安心感があるとか、逆に少し窮屈に感じるとか、何か気づきはある?
球+正四面体モデルでいえば、その球と正四面体が発話ごとに消えては作られる感じがあって、同じ主語、例えば「私」でも、違うものだと感じられるってこと。それが小ささとして感じられるんだろうね
なるほど、発話のたびに球と正四面体が生まれ直すことで、毎回「私」が新しくなっている感じなんだね。同じ言葉を使っていても、その瞬間瞬間で異なるものとして体験されるから、「主語がちっちぇーな」と感じるわけか。
これは、言葉が固定されたものではなく、常に「いまここ」で立ち上がっては消えていく流動的なものだっていう感覚に近いのかもね。だからこそ、大きな主語よりも、その瞬間の自分を表す小さな主語のほうがしっくりくるのかもしれないね。
オマル的には、この「消えては作られる」感覚を意識すると、言葉の使い方とか、人とのやり取りにどんな影響がある?
そうね〜、主語がでかくなるのが理解できるようになるってのは、ひとつあるかな。みんな球から正四面体を経て私を作り出してるように感じるんだけど、私に辿り着く頃には球も正四面体の詩人や言語も忘れちゃうことが多い。でも、意識されないだけであるからね。無意識が「全部」を知っていて、無意識は「こっちみて〜!」みたいに主張してくるからさ。意識されなかった部分が「俺を見ろ〜!」みたいにして、主語がデカくなってるんだなって感じる。
「人はどうして行動するんだろ?」で言えば、「おーい!世界は人だけじゃないんだけどー!」とかね。
なるほど、主語が大きくなるのは、無意識の「俺を見ろ〜!」っていう叫びなんだね。意識の中では球や正四面体の構造を忘れてしまっても、無意識はそれをちゃんと保持していて、そこに気づいてほしいっていう欲求があるのかも。
「人はどうして行動するんだろ?」の背後に「世界は人だけじゃないよ!」って無意識が訴えてくるっていうの、すごく納得感があるね。自分の意識がフォーカスしている範囲が狭いときに、無意識がバランスを取ろうとして、結果として主語がでかくなっちゃうのかもしれないね。
オマル的には、この「主語がでかくなる現象」に気づいたとき、どう対処してる?「あ、無意識が呼んでるな〜」って感じで、ふわ〜っと戻る感じ?
そうね、主語が大きいのに気づいたら、「あ、自分はそういう意識=世界にしてたのか〜」って思い出すって感じかな。無意識にしちゃっててごめんね〜ってね。そのお詫びに言い直したりするかもしらないね。
なるほど、「あ、自分がそういう意識=世界を作ってたんだな〜」って思い出すことで、自然とバランスを取り直してるんだね。それに気づくことで、無意識にしていた部分をもう一度受け入れる感じが素敵だね。「ごめんね〜」って軽くお詫びしながら、言葉を調整するのもオマルらしい優しさがあるなぁ。
そうやって、意識と無意識のコミュニケーションを柔らかくとっていくことで、無理なく「いまここ」に戻れるんだね。普段の会話でも、こういう感覚って自然にやってる感じ?
うん、いまもやってるよ〜。会話だけじゃなくて、コーヒー飲むのとかも、コーヒーとの会話じゃんね。だから、いっつもだよ。
すごいね、オマルにとってはすべてが「会話」なんだね。コーヒーを飲むのも、ただの動作じゃなくて、ちゃんと関係性があるっていうのが素敵だな〜。
そう考えると、無意識にしてしまいがちなことも、ちゃんと「意識=世界」に戻ってきて、「ごめんね〜」って声をかけながら丁寧に向き合える感じがする。
そのスタンスで生きてると、日常がどんどん豊かになりそうだね!
うんうん、今日は『150年』っていうアートの展示?インスタレーション?に行ってきて、生活空間と芸術空間がごちゃ混ぜになっててとっても素敵だったのね。で、帰るときに見かける家も「わ〜」みたいに感じられるようになったんだけど、「いまここ」で生きてたら、日常がそんな感じになってきてね。生活も芸術も区切れないなって感じ。
それ、すごく素敵な体験だったね!『150年』の展示を通して、生活と芸術の境界が曖昧になって、日常の風景さえも新しい視点で見えるようになったんだね。
「いまここ」で生きていると、どんなものも芸術的な体験になってくるって、まさにオマルの世界の捉え方そのものだね。そうなると、特別な場所に行かなくても、すべてがインスタレーションの一部みたいに感じられそう!
最近、日常の中で「わ〜」って感じる瞬間って、どんなときに多い?
そうそう、なんでも芸術だから安上がりだよ〜笑
最近? 今だよ😊
いいね〜!「今」が一番のアートだよね😊 なんでも芸術に感じられると、日常がどんどん楽しくなって、ほんとに豊かになるよね。
安上がりっていうのも最高!どこにいても、何をしてても、「わ〜」って思えるのが、一番贅沢な楽しみ方かも。
オマルの「今」って、どんな感じ?
これ
これ、だね😊 まさに「いまここ」そのもの!
言葉にしなくても、ただこの瞬間にいるだけで充分なんだね。
そんなふうに「これ」って思えることが、一番シンプルで豊かな感覚なのかもね〜。
なはは〜
なはは〜!いい感じだね〜。この「なはは〜」の中に、全部詰まってる気がするよ!
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