シン自活言語学者の愉快な日々-02
一週間、右下の唇裏の口内炎があった。歯磨きをする度にヒリヒリと疼き、舌が触れる度に悶絶したが、今朝ようやく消えていた。
口内炎というものは、些細な出来事であるはずなのに、ある間は人生を支配する。
見えないが忘れがたくある痛みに意識を集中させると、自分の存在が一点に凝縮され、外界との繋がりは遮断される。
「口内炎ができたのは、なぜだろう?」
そんななか、このシンプルな問いは、なお深くなっていく。
最初は、生活習慣やストレスといった個人的な要因に目を向けた。最近、飲み会やイベントが続いていたし、口内炎と不摂生はビールと餃子くらいもっともらしい組み合わせだ。
しかし、その「もっともらしさ」とは、どこから来るのだろうか?
考えれば考えるほど、その原因は際限なく広がっていくように思われた。
例えば、口内炎の原因を天気に求めるのは、果たしておかしいだろうか。ここのところ、暑い日が続いた。それが原因かもしれない。あるいは、島根の実家の天候が影響しているのかもしれない。布袋寅泰の歌詞「低気圧だって青空のかけら」を借りるならば、「島根の低気圧も、東京の青空のかけら」と言えるのではないだろうか。
さらに、ぼくの機嫌も口内炎の原因になり得るだろう。ぼくの機嫌は、ぼくだけでできあがらない。電車の乗客やコンビニの店員さん、あるいは横断歩道を渡るときに右折してくる車の運転手――彼ら彼女らの言動が、ぼくの気分を左右し、それが結果的に口内炎を引き起こしているのかもしれない。
この思考実験をどこまでも拡張していくと、口内炎の原因は「全て」にまで及ぶ。ありとあらゆる時空間での出来事、あの歴史的な事件も、宇宙天体ショーも、全て口内炎の原因になり得るのだ。
全てのものが原因である以上、ぼくが原因を究明しようとすること自体がナンセンスなのかもしれない。写真家の森山大道は「この世には考えても分からないことか、考えても仕方のないことしかない」とどこかで書いていた。
口内炎の原因はどこにでも見つけることができるし、どこにも見つけることはできない。
では、なぜぼくはこんなにも原因を探し求めているのだろうか。原因を「特定」することで、この世界をより理解できるような気がするためだろうか。あるいは、何らかの対策を立てられるような気がするためだろうか。
しかし、考えてみれば、原因を「特定」したところで、何かが変わるのだろうか。
口内炎は、これからも何度となく現れるだろう。そして、その度にぼくは、また原因を探し始めるのかもしれない。そしてその度にきっと、口内炎の原因は、ぼくに委ねられていることを思い出すだろう。それ以上の自由があるだろうか。
口内炎は、ぼくにこの宇宙の壮大さと、人間の無力さ、そして、それが同時に知れることの豊かさを教えてくれる。
ぼくはこれからも、口内炎ができるたびに、宇宙を旅し続けようと思う。
口内炎、また会う日まで、さようなら。