界隈塾 vol.0
4/14の界隈塾の翌日に書いた記事です。noteに転載します。
宮台真司先生の界隈塾にご招待してもらう。妖怪になりたい妖怪絵本作家の加藤志異さんからの招待だ。宮台先生が退官されたので一般参加ができるゼミみたいなものが始まるらしい。人が集まる場所は誘われてもほとんど行かなくなったけれど、これはなんだか気になったので、参加することにした。
加藤さんからは「イベントは13時からですが、打ち合わせがあるから12時には巣鴨の会場に来てください」とLINEで言われていた。それを分かりつつ、4時くらいまで寝ずにいた。何をしていたかはいま(4/15の15時前)は覚えていない。読書か瞑想かセックスか、それともその全部かだとは思う。
次の日の朝、つまりイベント当日、起きた瞬間のスッキリ度合いから察して、「間に合わないな」と感じた。スマホの時計を見ると、「11:23」だった(これは写真を見るかのように思い出せる)。「間に合わないな」と今度は確信し、界隈塾の様子を知るべくXを開き、あんまり情報が出てないことを確認しつつ、昨晩のポストに来ていた引用ポストに対して、追い引用ポストをしてから、そのあと加藤さんにLINEをする。
「おはようございます!寝坊しました!13時までには着けると思います。すみません。」
「おはようございます!」や「寝坊しました!」の「!」がまさにいま起きて慌てているかのような演出であざといが、これは遅刻してしまって悪いと感じている自分を無意識に表している、とかではなく、どちらかというと加藤さんや向こう側のスタッフさんたちへの配慮という側面が強い。ここで何も連絡しないとか、「遅れま〜す」など「にょろにょろ棒」を不用意に使うなどすると、予後がよくないことは学習済みだ。寝坊や遅刻は悪いと思っていないが、悪いと思っていないことを言葉であえて主張すると、大変に面倒になる。なので、言葉では悪いと思っていることを伝えながらも、どうしても滲み出てしまう「気にしてないです」を周りの方に察知してもらうことで、「こいつは明らかに反省してないが、言葉では謝ってるので、ここで突っ込んでしまうと分が悪い」と感じていただくためだ。分が悪いことを人は長く覚えていられないので、忘れられていく。結果的に「寝坊とか遅刻とかするけど、なんか許されてる奴」が出来上がる。ただし、寝坊や遅刻はし続けるので、それらをしてはダメだ、という信念をお持ちの方にはオススメできません。
巣鴨に来るのは一年振りくらいだ。美味しいどら焼き屋さんがあるのを思い出す。古き良き喫茶店があったのも思い出す。そちらに流れて行きたくなる自分を眺めつつ、会場に到着した。(ずいぶん広いな)と思ったら壁が鏡張りのあれだったので、実際より広く見えていただけだったが、鏡がなくても(?)会場は広く、たくさんの人が座っていた。宮台先生が赤いTシャツを着ていて目立ってるなぁ、と思いながら、残席少ないなか適当に席を決めて座る。司会をしていた加藤さんがぼくに気づいて目配せをしてくれる。加藤さんは妖怪になりたい人なのに、とても社会性があってすごい。時系列はズレるが、帰り際に加藤さんとハグをすると、二の腕がとても逞しくて驚いた。男の人なんだなぁ、というよく分からない感想を抱いた。
前半のお話は宮台先生の若い頃のエピソードを聞けたのが嬉しく、またコメンテーターの方々の話もキャラが立っていて面白かった。話の内容についてはアーカイブがあるので、そちらをご覧ください。
https://peatix.com/event/3894089
前半から後半に移る休憩のところで、喫煙所で打ち合わせがあり、とは言っても「テンポよく、盛り上がれば長くなってもよい」ほどの指示で、何も考えていないぼくとしてはちょうどよい指示で助かった。
お悩み相談コーナーということで、会場とオンラインからの質問に答えることになった。微かに緊張の兆しが胸のあたりにあることに気づいて驚いたが、すぐ消えた。たまには人前に立つものだな、と思った。
一緒にゲストとして登壇したのが、蓑手章吾さんという学校の先生で、大変に型破りな経験談に勇気をもらった。Sさんという共通の知り合いもいて、近々学校に遊びに行きたい。学校に勤めるのは難しいけれど、あの空間でどう「教育」を括弧に入れられるかを体現するのは、いつでも愉快なことだ。
お悩み相談はのらりくらりといくつかお答えのような、そうでないような話をした。どれも真剣なのだろうけど、どこか可笑しさのある、かわいらしい相談が多かったように思う。個人的に面白かったのは、過食と嘔吐を繰り返してしまうという相談で、これはぼくにとってタイムリーだった。
ぼくは数日前に原因不明の激しい嘔吐を経験していた。コーヒーチェーン店で食べたサンドイッチが原因だと思うのだが、お腹も空いていなかったのに注文し、美味しくいただいたはいいけれど、15分もせずに吐き気と眩暈がしだして、吐いた。一度では吐ききれず、お店で3回、退店した後にコンビニで水を買って3回、合計6回に分けて吐き切ることになった。吐いたものが水だけになってようやく体調が落ち着き、そのあと横になって数時間寝て休んだ。
その経験が原因不明なこともあり、しばらく印象に残っていた。サンドイッチを食べた後、体調が悪くなる予兆があり、「吐いてしまえばいい」という直感はあった。しかし、「せっかく食べたのに、吐いたらもったいない」とか「お店の席では吐くわけにはいかない、トイレまで我慢しないと」などの力が働いて、吐く行動を抑制しているのを自覚した。その結果、寝て休む必要のあるくらいの体調になったのだと感じる。
宮台先生の話で、自己(self)と自我(ego)を区別する話があったけれど、それに引きつけて言うならば、吐こうとしたのは意識と無意識の中心である自己であり、吐くのを止めたのは、意識の中心である自我の働きだ。
呼吸との対比で嘔吐を考えてみる。呼吸は吸わなければ吐けない。嘔吐も食べなければ吐くことができない。この点は同じだ。しかし逆の流れでは異なる。呼吸は吐かなければ吸うことができないのに対して、嘔吐については、吐かなくても食べることができる。消化していくからだ。吐くことは食事においてオプショナルな行為になる。
呼吸は無意識になされることだが、食事は意識してすることだ。気絶しても呼吸は続くが、食事を続けることはできない。呼吸はどれだけ吸い続けたくても、いつかは吐かなければならない。無意識が、または自己が吸い続けることを許さない。死ぬからだ。しかし、食事を続けたければ、好きなだけ食べ続けることができる。お腹に溜まっていっぱいになっても、消化を待たずに吐けばいい。入れて出すサイクルは、意識的に完結することができる。嘔吐を含んだサイクルとして食事がなされるとき、食事は意識の、自我の完全統制下にある。食べることは吐くこととセットであり、意識と無意識を超越するためのデバイスとして機能するものかもしれない。
そんなふうに、嘔吐について思いを巡らせていた時期だったから、そのお悩み相談の主がとても気になり、素朴にどうやってそれだけ吐けるのか、吐くための工夫がどうなされているのか、吐くのに適した食事はなんなのか、などなど、回答そっちのけで逆に質問を返してしまった。
そうしたら、懇親会のときにその相談主が話しかけてくださり、過食と嘔吐について快く話してくれた。かわいい女子高生だった。3センチ径のホースを胃まで入れて吐くこと、腸に吸収されないために食べるものの順番を考えること、5日で10キロのお米がなくなることなど、どれもやはり面白かった。俄然興味が出て、自分も試そうかと思っている。吐くことについて自由になるためかもしれないし、かわいい女子高生と遊びたいからかもしれないし、おそらくその両方だろうとは思うが、とにかく出不精のぼくが界隈塾に来た理由のひとつは、彼女に会うためだったと感じている。
その相談主はぼくが遅れてきて適当に座った席の隣に座っていた人だったのだが、こういう「偶然」は日常茶飯事なので、もうあまり驚かないことにしている。「ことにしている」ということは、多少は驚いてはいるのだが、驚いていることをただ眺めているだけに留めて、距離をとっている。その方がなんとなく自然で、驚きに身を任せるより、内部が充実する。
懇親会では、何の気なしに発言したポリアモラス(複数の人を同時に好きになる)のようなそうでないような〜みたいな発言に対しての質問と、シャーマニック(目に見えない世界について見たり聞いたりする)のようなそうでないような〜への質問と、ムラブリと言語学に対しての質問がほどよく混ざっていて、この会で偏りなくいまの自分を全方向的に表すことができたことの結果として受け取った。
縁もたけなわの中、加藤さんが「みなさんの夢をこの紙に書いてください!」というので「ラーメン食べる」と書き、「あなたの夢は必ず叶う!!!」と加藤さんが吠えた通りに、加藤さんに帰り際にいただいた1000円で夢を叶えた(100円足りなかったのでグラレコで参加された千晴さんに払ってもらった)。鶏白湯ラーメンは、とても美味しかったけど、少し足りなかったので、コンビニであさりわかめラーメンを買って食べた。昼間に並んでいたラーメン屋さんが近くにあったので、また今度巣鴨に来たときはそこに行ってみようと思う。