作品の前ではダンサーピラミッドは無価値
先日某バンドのMVの撮影にて、制作兼ダンサーとして参加した。
結論から言うと、映像監督という仕事に大いに可能性を感じた日だった。
群舞で50人を超えるダンサーの中には僕が高校の時に憧れた日本最高峰のアニメーションダンサーや、イベントMCとして名高いダンサー、juste deboutというダンサーなら必ず見たことも聞いたこともあるバトル世界大会で日本人代表として出場した最強若手ダンサーもいた。
その日コレオグラファーとして入っていたのは若干20歳のダンサー。過去に監督と何度も仕事をしており実力も折り紙付だ。
監督とコレオの指示に従ってダンサー達が指示通りに映像を作っていく。
明らかに違和感があった。
違和感というより僕の目に入ってくる光景だけ屈折しているようだった。
なんでこんなすごい人と俺は踊っているんだ?
なんでこんなすごい人もいれば、大学の後輩もいて、ダンサーでもないほとんど素人みたいな人もいるんだ????
どんなにすごいダンサーでもモノづくりの上では平等。そしてその上に立つのは圧倒的に監督。
もちろん上から目線で監督している方では全くない、本人もダンサーの身体表現に敬意を表している。ただ構図的に、明らかに、そうなのだ。"俺の作る世界に協力してくれ" というスタンスで現場は進んでいった。普通に当たり前だが。
「もっとこういう風にしてくれ」ダンサー達は揃ってうなずく。
「踊っても良いがもっと人間的な動きで良い」ダンサーは人間としてパフォーマンスする。
プレイバックされた映像を50人越えのダンサーたちが小さい画面に向かってひしめき合いながら覗き込む。監督達は数人でモニターを見て次のカットの話をする。映像は素晴らしいものだった。
本当に、そう思いたくはなかったが、多くのストリートダンサーには足りないモノづくり、作品作りへのノウハウとクリエイティビティの圧倒的な差を感じざるをえなかった。完全にダンサーは映像表現におけるパーツだった。
小道具として、博士がかけるメガネの様に、はたまたプロポーズシーンで渡すリングの様に、表現者であるというより演出のパーツ一部だった。前から気づいてはいたが確信に変わった。
と同時に、俺しか理解できていないのかもしれない、俺だけ気づいていることに震えて歓喜した。
映像監督として一緒にモノづくりをしていけるストリートダンサーを増やし俺にしかできない映像を作り上げる。
多くの理解がまだない状態でもそのためには作り続けなければならない、進み続けなければならない。
必ず俺なりのダンサー表現の答えを出したい。
今日も企画を書く。