母の死を経て
礼節
3歳から空手を始め、最初に叩き込まれたのは礼節。
”自分に感謝・親に感謝・社会に感謝”
16歳くらいから空手から離れて、少しずつこの意識も薄れていた気がする。
11月7日に母が亡くなり、改めてこの言葉に立ちかえった。というより自然とこの言葉たちが湧き出てきた。
母さん本当に心からありがとう。
僕がお世話になっている環境・仲間達には頭が上がりません。
特にこの期間僕に会って支えてくださった皆さまには本当にマジで超助けてもらいました。ありがとう。
これから母の話が長くなるので、先に友人たちに向けて書きます。
僕の周りにいる人たちは最高です。この期間を通してさらに深く気づくことができました。正直、この期間で心が折れなかったのは紛れもなくみんなのおかげです。
家族とはなんなのかを考える期間でもありました。そんな中で僕に寄り添ってくれる、気持ちを深く共有することができた意味では、みんなの存在は家族以上に家族だと言えます。
ここまで深い絆を普通は築けない、この期間学んだことの一つです。それができたことに心から感謝します。
そして、その仲間を引き寄せた自分もよくやったと褒めたい。自分の頑張りに応えてくれているかのように周りも素晴らしいエネルギーで溢れている。その循環を大きくできるようにこれからも進んでいきたい。
とはいえ、少し今はスローペースになってしまっています。多少はゆっくり向き合う必要があるようです。飛ばしかけた仕事もある。ここまでまとめるにも1ヶ月かかり、もはや書き切ることなんで無理ですが、大切なことなので今メモを残しておきたい。
母からたくさんの愛情を受け取った。
これからは俺が周りの人に愛情を与えていけるように生きていきたい。
ガン発覚
2023年7月末、母が激しいお腹の痛みを感じる、強がりだから謎にそれでも頑張っていた。ようやく近所のクリニックに通ったがハッキリとした原因はわからなかった。3日後くらいに念の為にやっておいた軽いガン検査に引っかかり、大きい病院への紹介状を書いてもらった。お腹が痛そうにしているのに父親はそれに気付かず全然ケアしてくれないことを、朝の4時に床に倒れながら父親に向かって泣きじゃくっていた。弟(双子のうち、練馬区公務員の方)が痺れを切らして下の階におりて「いつも強がってて俺たちに全然言わないからじゃん、気にしたって大丈夫しか言わないから俺たちもどうにもできないよ」と母親をまくし立ていた。確かに母親はいつも俺たちの話を聞いてくれないし、心配してもつき返してくる人だった。でもこういう時に必要なのは、気持ちに気づいてあげられなくてごめんという気持ちと、痛みへの共感が必要なのに、弟はこちら側の都合と怒りをぶつけていた(いつも話を聞かない母へのフラストレーションはめちゃくちゃわかるが)。俺は母の泣き声で起きていたが、母親が親父に対しての思いをこの場で吐き出させるためにじっと様子をうかがっていた。割って入ったら思ってることも言えないだろうと気を遣った。弟が下に降りた時嫌な予感はした、がそれは見事的中し辛そうにしている母親を追い詰めつつあった。首根っこ掴んで外に弾き出して優しく語りかけた。「お前の気持ちはすごくわかる、俺もいつもかなり説得しないと母は無理するのをやめてくれない。でも今は気持ちに寄り添うときだろ。絶対に追い込むような口調と態度で責め立てたりするな。こっちの心配をいつも無下にされても、今みたいな精神状態でやることじゃないだろ。大事にできなくてごめん、もっと気遣ってあげればよかったねって言うべきだろ」弟は黙って聞いていたし、ちゃんと納得していた。
これまででも症状への対処が悠長だと感じていたのに、この腹痛の日から病院の検査まで10日間ほど空いていた。
そしてやっと検査当日と思ったらただの検査で結果は翌日。
翌日に末期胆のうガンだと診断された。その連絡は一緒に診断に行ったはずの親父からではなく母親本人からラインがきた。
最悪なタイミングだが、俺は39度くらいの熱があり寝込んでいた。が、なんとか起きて駆けつけ、病院の検温をごまかし中まで入った。
駆け足で病院を駆け回り親父を見つけてグッと睨んで母はどこにいるか聞いた。母は細長い廊下の待合の真ん中に腰掛けていた。
自分の体の火照りを感じながら、母に駆け寄って肩を抱き寄せた
「すい臓がんだって、もういろんなところに転移していて死んじゃうんだって、どうしよう、どうしよう。」
そのまま俺の肩に顔を埋めて泣いた。俺は肩をさすって大丈夫としか言えなかった。
なぜ親父は診断を受けてショックなはずの母親のそばにいないのか、少しでも安心させてあげるために片時も離れない、俺だったらそうする。なのに俺が到着した時、少し離れた廊下のところに立っていた、母親が他の診察があるからと言って流れで少し離れたところにいたらしい。ありえない。母の方が先にラインしてきたのもありえない。大事な時に大事な判断ができない親父に幻滅というか理解ができなかった。その後の入院についての説明もとてもじゃないが親父だと不安すぎるから、マジで体調悪いけど一緒に話を聞いたしわからない事やどれくらい予算がかかるのかも俺が整理した。ナースさんに本当に頼もしい息子だねと言われてちょっと救いだったわ。
そして入院は一週間後の7月17日、長すぎると感じた。こんなに痛そうにしているのになぜ待たされるのか。そもそもクリニックなんか行かずに直で病院に行った方が絶対いいだろ、なんでこんな時にまで人に気を遣って自分を後回しにしているんだ、貧乏百姓すぎるだろ、それは優しさとは違うんじゃないかとめちゃくちゃ思った。俺たちを愛しているなら自分自身をもっと大切にしてほしかった。
入院
一週間入院中、体に合う抗がん剤を見つけるための検査などが行われた。
入院中のお見舞い、親父はめちゃくちゃ暑いなか中途半端に遠い病院の駐車場に駐車した。もっと病院の近くに別の駐車場があったのになんで調べないんだ、Googleマップとか普段使ってないくらいの生活圏・レベルなのかと思うと生きてる社会のギャップにドン引きした、ここは東京だぜ?
あと他にも、今そんなこと気にするか?みたいな内容の心配をしていて、それにも腹が立ったのを覚えている。(この不快感を忘れないために書く)
そんな覚えてもないことが気になるくらいには俺の気は立っていた。
5階に上がり病室に入っていく、ベットにいる母は本当に弱々しい姿だった。黄疸と言う肌が黄色くなる症状が出ており(実際の身体の苦しさには関係ないのだが)、そんなの俺は初めて見るし痛々しさを直感的に感じさせる症状だった。小学5年生くらいの時に「お金がないの」と頭を抱えてパニックになりながら苦しそうな声で悶絶していた時の母の姿より弱々しい。
とにかくお腹の激痛を訴えていた。入院して2.3日目に最初にお見舞いに行ったとき、ナースのケアの仕方が雑だと文句を言っていた。母親はいつも他人のサービスをすぐジャッジするから、よくクレーム言っている場面を小さい頃からよく目にしていた。この後に及んでそんなこと言ってるのかよと正直呆れる部分もあった。大抵の場合は母が大袈裟に騒いでいる場合が多いし、サービスの中身より人の態度や言い方が悪い方に意識を引っ張られてムカついているから店員さんからしたら厄介だと思う。
話を戻す。それをナースさんに僕らから伝え担当ナースが変わった、すると一気に機嫌が良くなった。「ここのナースさんはいい人ばっかり、私は本当に人に恵まれている」と言っていた。黄疸の症状も良くなり、健康的な肌の色に見えた、それだけでかなり良くなっていそうに見えた。
しかし主治医から説明があった。もう抗がん剤治療をする段階ではない、"いかに残りの時間を良いものにしていくか"と言う段階だそうだ。正直抗がん剤治療の想像もできてなかったし、とにかく献身的に母のケアをすることには変わりないのだろうと思った。
かなり弱った母の姿を見て俺ももちろん動揺していたが、実家を出ていたユタカ(Fラン大学を誰にも言わず勝手に中退し、6万の美顔器を女に貢ぐような弟)がかなり動揺していた。コイツだけ今実家に住んでいなくてあまり状況を側で見ていなかったから仕方ないと思った。確かに体にいろんな管が付けられていて仰々しい点滴もされていたし、かなり弱々しい姿でショックだったろうと。
入院中すぐに状況を職場に連絡した。
上司たちに、母と自分の生活がどうなるか読めず撮影現場は難しそうなのでフルリモートで働かせてほしいと伝えた。
「悠弓馬、家族より大事なものなんてないからとにかく休んでいいぞ」
本当に素晴らしい環境に俺はいるんだと深く実感した。CEKAI最高。
大事な判断を即座に大胆にできる、優秀で器のでかい大人たちが自分の上司で本当に良かった。
検査を全て終えて、家に帰る際、ベットごと車に移動する時ずっとお世話になっていたナースさんにすごく感謝していた。「私は本当に周りの人に恵まれている」こう言った感謝の言葉をちゃんと実感しながら言える母は素晴らしいなと思ったと共に、あのクレームじみた癇癪はなんだったんだと思う。結局は機嫌次第で、大袈裟な雰囲気や語感を纏って、こっちに痛みがひしひし感じるように伝えてくる。まあいつものことだった。
家までのベットごと送るハイエース車中では母の手をずっと握った。この時はまだ実感湧いていなくて、とにかく一番不安なのは母だから安心させてあげるようにしたかった。入院前はその場で倒れ込むほどお腹の痛みがひどかったが、痛み止めが効いたようで会話できる程度にはなっていた。
俺は主治医に会ったことなくて、病状やどんなケアが一番いいのか、何が原因なのか(聞いたところで仕方ないが)色々聞きたいことがあった。親父が母と一緒に診察を受けていたが、例の如く親父はこういう大事な時にとても頼りない。だから直接主治医と話したい意思を伝えていて、病院から電話がかかってきた。「早くてあと1.2週間かと存じます」
俺は入院前に1・2ヶ月と聞いていたから、突きつけられた数字に言葉が出なかった。だが絶望する間もなく、すぐ親父と弟に伝えた。
俺はこの”1・2週間”という具体的な数字が出る前から、とにかく母親のそばにいることが一番大切だと当然思っていた。母への愛情と感謝はもちろん、母がこんな状況で一番して欲しいことはただそばにいることだし俺も心からそうしたい。だからすぐにフルリモートできるように職場に交渉したし、母のケアをできるよう自分なりに体制を整えた。
親父は、すぐに会社を休むことはできないと言っていた。こんな時に休めない会社なんで全部雑魚なんだから滅べばいいと俺は心底思った。冷静に妻の余命宣告されてるのに、有給でもなんでも全部使って休めよってまじで思う。一時的に会社からの評価下がったってよくね別に、休めない理由なんてないだろ休めよ、確かに、年齢も会社でのポジションも責任感も俺とは違うのはわかるけど、全部投げ打ってでもそばにいてやれよってまじで思った。
だから1・2ヶ月と言われた段階から、どれぐらい休暇が所得できるのかお互い確認していた。所得できる休暇数から言えば、余裕で1・2週間は休めるはずだった。なのになぜやらなかった、まじで理解できない。
と思いつつ、仕事でもやってないと気が持たないのだろうと一瞬親父を思い遣った。けれど、それでも向き合わなきゃいけないんじゃなかったのかと思う。俺だって辛いのに、親父がそんなだから俺が毅然として振る舞ったり、狼狽えずに立ち回らなきゃいけなかった。もう少し俺だってショックを丁寧に処理したかったよ。ま、もう別にいいんだけどさ。
ケア生活①
8月末から平日の日中は基本的に俺が母のケアをしていた。実際にそんなにやることは多くないのだが、”1・2週間”と言われていたから、いつ容体が悪くなっていくか分からない緊張感が常にあった。でもそれは決して表に出してはいけない、こっちがセンシティブになっているのは気遣いな母にとっては本当に良くない、なるべくどっしりいつも通り構えてあげるのがベストだと思ったし、お医者さんもそれが良いと言っていた。
母はずっと寝っぱなしだから腰回りの筋肉が痛む、そこを丁寧にさすってあげるのが介護の中で貢献しているなと思える瞬間だった。俺は普段ストレッチとか自分の身体に向き合ってきたから筋肉のほぐし方とかどうしたら楽かはなんとなく把握していた。念押しで整体師やストレッチ専門店で働いてる友達にも知恵を借りながら、なるべく母が快適に過ごせるようにしてあげたかった。気を送るようにマッサージしてあげたり伸ばしたりしてあげた。弟や親父も不器用ながらに頑張っていたが、やっぱり俺が一番うまいと母は言った。相手を心底思い遣って努力してるから当たり前だろ、っと意地悪にも思った。
あと印象的なのは、退院から2・3日目、母は”死ぬ”と言いながら激しい寒気を訴えた。8月末なのに、介護用の大きなベットが大きく揺れるくらい身震いしていた。布団を6枚くらい重ね「全身を押さえつけてくれ、寒い、寒い」と声を荒げていた。それも気を送るようにみんなで母に覆い被さって温めた。
その熱の一件があってから、解熱剤として坐薬を入れていた。(肛門から入れるタイプの薬、効き目・即効性が飲み薬もかなり高い)確かに最初は母も嫌がっていたが、俺は躊躇せず母が快適ならなんでもやった。弟はやり方がわからないと言って逃げていた。調べろ雑魚が。それか俺か親父に教われ。
もちろん協力して母の介護をしなければならないのはわかっていたし、喧嘩しているところは絶対に見せたくなかったからこの気持ちは目の前では隠し通した(友人に話したりはしていたが)。むしろ、この生活が始まる時に、ちゃんと協力しようと言ったのは俺だったし、ストレス溜めないようにフラットに感情的にならずに意見を言い合おうと促したのも俺だった(親父から切り出して欲しかったが)。だから何に対しても感謝の気持ちは少しオーバーぐらいに伝えて、「俺たちよくやってるよ」とグループラインでよく言うようにしていた。偉すぎるオレ。。
父は17時ぐらいには帰ってくるから夜は俺も休み休みケアをしていた。
余命1・2週間だと思っていたから、退院後はなるべく話したいことを話しておこうと思って色々な話をした。なにより、母に"俺らは大丈夫"と思って欲しかった。しかし母はめちゃくちゃ話を聞かない、思い込みが激しい人だから、かなり丁寧に母親の機嫌を損ねないような言い方に気をつけながら、順を追って話して初めて俺の意図が伝わるような人だ。そしてとんでもなく心配性だ、20歳過ぎても、外が雨降ってたら濡れないか心配してくる、もう別に濡れてもしょうがないし、別に傘させばいいし、俺からしたら本当にどうでもいいことまで心配してくる。
だからとにかく安心させたくて俺はそばにいたし、母が起きれている時間は会話した。正直、弟と親父を心配になるのはわかる。だから俺だけでも心配を拭いたい。ダンスや今の野望、頼れる仲間がたくさんいることを話した。
「心配性なのはわかってる、退院してからも俺がちょっと出かけるたびにすごく不安そうに”気をつけるんだよ”と声をかけてくるじゃん。前も言ったけど、(俺にとって)過度な心配と不安は俺にも伝わってきて、良くない意味でプレッシャーに変わってしまうんだ。それを母にいちいち言う訳にもいかないし、俺だっていつも気持ちに応えたい、心配かけたくないからすごく気を遣ってしまって余計な力が入った状態で頑張るからめちゃくちゃ1人で疲れちゃう。でも、そのおかげでここまで強くなれた自分もいるから一概に悪いことじゃないのもわかっている。だがもし過度に心配されたままいなくなっちゃったら、俺はとても悪いことした気分になってしまう。さっき話したように俺は今最高な環境にいるしとても頼れる仲間もいる。胸を張って俺は大丈夫と言える。だから安心してほしい。」
「悠弓馬は心配のうちに入らないから大丈夫」
えーーそれだけかよ、、、母はヒステリックだから、めちゃくちゃ心配されてるかと思ってた、本当にいつも鬼気迫る言い方するし、その様子を見てこっちがすごく心配になっちゃうくらいだし(弟もそう言ってたから客観的に見てもそうだと断言する)まじでなんなんだよ、、、
と思いつつ、かなり心が軽くなった。思い切って俺がBIGになる姿をこれから見せていけるなと安心した。
ケア生活②
母が期間限定のマックシェイク飲みたいと言ったらすぐに買ってきたし、お気に入りのバブカ(チョコパン)が食べたいと言ったら朝イチで青山のパン屋まで行った。今までで一番充実感のあるおつかいだったと思う。これ食べたら喜ぶのだろうとこんなに想像しながらおつかいしたのは初めてだった。
母のお見舞いにきてくれる母の友人たちには本当に感謝している。やはり俺じゃ引き出せない母の楽しそうな顔があった。俺の高校のママ友たちが、お惣菜を持ち寄ってくれたのもすごく嬉しかった。あとママ友たちは、お見舞いのたびに介護している俺をめちゃ褒めてくれるからすごく助かった。
小学生の時によく遊んだ幼馴染も母に会ってくれて嬉しかった。特に嬉しかったのは、どこからか母の容態を聞きつけて、自分から俺にお見舞い行くと連絡くれた友達たちだ。
正直、誰かに頼っていいような話題ではなかった気がしていた。母との関係値を考慮してもお見舞いにきてくれる友達なんて中々いないし、少なからず友達に気を遣わせてしまうから1人の幼馴染を除いては自分から友達にお見舞いをお願いすることはなかった。そんななか、高校のダンス部の友達や他の幼馴染から連絡が来た時は、本当にグッときた。
人によっては、そっとしておいてあげようとか、自分が割り入っていい感じじゃないだろうなとか、会わない理由を作ると思うしそれは悪いことでもないと思う。
だからこそ、俺の気持ちを計って寄り添ってくれたことがとんでもなく嬉しかった、こんな最高の友達がいるんだなと感動さえした。本当は一歩踏み込んで俺に寄り添って欲しかったけど我慢しなきゃと思っていた反動で、本当に嬉しかった。
ある日俺と週一回顔を出す弟(ゆたか)が家にいた。母が食べたいと言っていたバブカを買いに行くために俺は家を空けた。帰ったら看護師さんがきていて、他に誰もいなかった。そしてその日はゲリラ豪雨の土砂降りで停電まで起きていたから、看護師さんも少しテンパっていた。俺も雨にやられてビチョぬれで帰ったので、着替える前に急いでブレーカーをチェックしたり、ツイッターで停電情報をしれべて対処した、パンツ一丁で。母に酸素送る装置がついていたから心配でならなかったからだ。
なんでゆたか家にいないんだ?
問題を対処し終わった後にゆたかが帰ってきた。めちゃくちゃ怒りを抑えながら何をしていたかを聞いたら、見舞いに来ていたゆたかの友達を駅まで送っていたと言う。クソすぎる。そんなの優しさでもなんでもない、甘えてるだけだ。母のそばにいることから逃れているだけだ。母のことを考えたら、1秒でもそばにいて顔をみせるのがいいに決まってる。てか普通にベットから動けない人間を一人にしないだろ。タクシーでもなんでも使って友達は帰ればいい。そもそも一週間に一回しか顔を出さないのがクソだ。余命1・2週間と言われているのに、大学中退して適当に入った中古車販売という底辺の仕事も休めないなんて、神経がイカれてやがる全く。
でも全てに呆れてしまって、「頼むから1人にしてあげないでくれ」とだけ伝えた。
俺は母が幸せに快適に過ごせることがこの生活の全てだと思っていた。親父も弟もなぜそれに全力を注がないんだろうか。俺には全く理解できない。結局甘えてるんだと思う、大事なことを大事なタイミングで決断できない奴はクソだ。でもそんな人でもカバーして許してあげるのが家族なんだろう(?)。ぶっちゃけ俺にはそんな余裕はなかったけど。
とかいう気持ちも抱えながら、1・2週間だと思っていた介護生活も3ヶ月めに突入していた。
11月7日
俺はこの介護の期間、眠れないというよりかはむしろ眠りたかった。この鬱蒼とした気分から逃れたかったんだと思う。8月末から毎日3ヶ月弱なにかしらの夢を見た。マジで毎日。22時くらいには寝て5時とかに起きてしまっていた。
この日も5時台に起きて母を起こさないように散歩に出た。俺が朝飯食べた後、母が息苦しそうにしていたから、看護師さんを呼んだ。もうここ一週間くらいはコミュニケーション取れるような意識はなかった。俺はまたちょっとサイクリングに出かけた。弟から「看護師的には今日か明日にでもといった感じだった」俺はもう少し走ってから帰ろうと思った。1時間後くらいに、弟から息をしていないと電話かかってきた。すぐに帰宅して弟に医者を呼んだか聞いたら呼んでないと言っていて、怒りよりも冷静に対処しなきゃという気持ちが強かった、すぐに俺が医者に連絡した。その後すぐ親父も帰ってきた。
俺が手を握った時はギリ温かった気がする。(本当は当日に書き留めたかったがちょっと整理の時間が必要だった)
医者が死亡時刻を申告した瞬間、親父は泣いていた。
数時間は何をしていいかわからない時間が続いた。(1ヶ月経って振り返っても、本当にあまり覚えていない)
親父になにか頼むのも悪かったから、役所や母の友人・職場への連絡は俺がした。親父には喪主をやってもらわなきゃいけないから、葬儀屋だけ手続きをやってもらった。
当日に俺が連絡した母の友人達は顔を見にきてくれた、俺は毅然とした態度をしつつ、ちょっとちょけたりしながら対応した。
気づいたら夜中で寝た。
葬儀
葬儀当日、家は静かだったけど忙しなくしてて、行きの車でたくやと話した。おばあちゃんの葬式から1年ちょっとしか経ってないのに、同じ式場に来てなんか嫌な意味で久しぶりじゃない感じがして不快だった。
母の職場の方も式に来てくれた。
式が始まる前に俺に寄り添って、しほママ(叔母)が「お母さん悔しかったと思うよ、道半ばだったと思う、できることがあればやるからいつでも言ってね」と言ってくれた。母の姉弟間でお金の問題で不仲になってしまったのはなんとなく知っていた。しほママが全然お金を返さないのに、さらに"娘の制服新調したくて、、"などと断れないような言い訳をつけてお金を求めたりしたらしい。しびれを切らして母とあきパパ(叔父)がしほママに強く言ったらしいが、逆ギレされて音信不通になってた。母は葬式に呼ばなくていいというほどだったが、そんな訳にもいかないだろうと俺はあきパパにガンが発覚した時点でしほママにも伝えてくれと連絡していた。
火葬の直前、1番泣いていたのはしほママだった。迷惑かけていたと後悔してるんだと思う。亡くなったらもう謝ることもできない、逆に一生謝り続けることになる。
遺骨を親父が持ち、遺影を俺が持った。かなり軽かった。
全ての工程が終わった後、きてくれた方々に最初に挨拶をしたのは俺だった。自然と”ありがとうございました”と出た。その後に親父も続いた。
しほ(従兄弟)たちに来てくれてありがとうねって挨拶したら、他人行儀にありがとうございましたって言われた。流石に冷たいんじゃないかと思ったが、まあ言葉が見つからなかったのだろう。
この後の話につながるが、ふと家族や仲間についてここでも考えさせられた。絆とは血とはなんなのか。なぜふんわりとつながっているだけで葬儀に来るのか。もし俺だったらいつも自分のそばにいた仲間にきてもらった方がよっぽど嬉しい。でも普通の人はなかなか深い絆を作ることはないのだろう、だから雰囲気で慣習で葬儀に来る(言い過ぎか)。俺は周りの環境と仲間に恵まれているからこんな風に思えるのだ、とも思った。
葬儀の後、あきパパ一家が家に来た。
なるべくここでもなるべくゆたか(弟)とは話さないように俺はしていた、あきパパと楽しそうに釣りの話をしていたが、クソつまんない人生だなと呆れた、20代前半でそんな趣味しかないなんて哀れ極まりない。あき(従兄弟)が夕食用に惣菜をまとめて買ってきてくれた、優しい、そういう社会で育ったのだろう。俺の一個上の男でおばあちゃんの家でよく一緒に遊んだし、良い友達でもあった。だが久しぶりに会うと、コミュニケーションは全く苦手そうな不器用でつまらない顔の男になっていた。ほんのりとした優しさを感じつつも、俺に対してなにか言葉をかける訳ではないし、ただなんとなく俺の家で時間を潰しているようにも見えた。なんだか情けないと思った。こんな時俺の周りの仲間や先輩ならどうしてくれただろうと想像すると、あきはあまりに寂しい対応だと感じた。節々で感じていたが、やはり武田家の中で、俺はコミュニケーションができる方で、人に対する想像力があり、視野が広く、相手を思いやれる力が人一倍あるのだと感じた。そう勘違いしちゃうくらいな環境にいたんだとやるせない気持ちになった。俺の周りではこれぐらい普通にできる人たくさんいるのに。
本当に悲しくなるがこんなものなんだと諦めた気持ちもある。俺にはすでに素晴らしい環境と仲間がいてくれるから、切り捨てのような気持ちの切り替えができるのだと思う。もしなかったら、それでもいいところはあるなどと無理やり思いを巡らせたり、無理に武田家を変えるような努力をしちゃっていたと思う。
あき達が家に来た後、やっとゆっくりした時間が訪れた、15時半とかだった。この時やっと少し実感が湧いた。”いない”と言う感覚が冷たくのしかかる。辛い時や寂しいときに来る特有の心がキュッてなるようなシンプルなモノではない。全身が莫大な冷たい空気・重力にやさしく押しつぶされるような感覚だった。きっと、3ヶ月弱続いた介護生活の終わりによる解放感、そんなことを思ってしまう自分に対する情けなさ、喪失感、ここから立ち上がらなければならない使命感とそれができなさそうな自信のなさ、他にも言葉にできない感情たちが俺にのしかかって来たんだと思う。でも正直にいうと、少しばかり”解放感に伴う罪悪感”が強かったかもしれない。解放感を感じてしまうまでに、俺はいろんなことに耐えていたと気付いた。
命日から葬儀の数日間でも、解放感という意味ではあったはずだ、でもどこかそんな気持ちを自分で否定していたから遅れてやってきたんだと思う。
物心ついた時から感じていた母からの期待と無自覚のプレッシャー、父親の頼りなさ、それを拭うと決めた覚悟、バカな弟たちを結局気にかけてしまう心労、毎日が母の最後かもしれないという緊張感、価値観がとことん合わない家族に向き合って生きる難しさ。
死ぬ気で育ててくれた母親への感謝と愛情を否定したくない、けれど同時に、この気持ちのやり場の無さは25年間続いていた。ありがたいことに、周りの仲間に話すことで少しづつ栓抜きはできていたが、それでも全然足りないくらい莫大なプレッシャーと不安を抱えてきた。
親父
俺が7歳くらいの時からちょこちょこ家にやってきていた、8歳くらいから一緒に住み始めた気がする、アホな弟たちが小1に上がったタイミングで周りの友達に新しいお父さん来たと無神経な話をしていて、恥ずかしくて俺がブチギレた記憶があるから間違いない。
宮城から来たらしい、ドラゴンボールの話を最初はしていた気がする、じゃれて遊んだりもしてくれた。でも今言えばその時点でさえも、"お父さん"という頼り方はしていなかったと思う。心を許してない訳じゃないが、甘えるほどではなかった。結局、貧乏ながら一生懸命に育ててくれる母親からの期待に全力で応えなければという気持ちが強かった。父に甘えるという発想はなかった。
俺がダンスを小学6年生くらいに初めて、母と一緒に家を空けることが多くなった。さらには弟たちもやりたいと言い始め、土日は父1人で留守番が多かった。そのあたりから、父があからさまに不機嫌だったり、俺らに対して強い当たりになり始めた。まあ基本的に俺が悪いんだが、ゲンコツや怒鳴られたりもした。弟を殴ったら、俺も殴られた。母が暴力をやめてと伝えても「言っても聞かないんだから殴るしかないだろ」と父が切り返したのを覚えている。今思えば、なんて稚拙な発想なんだろうと身内ながら恥ずかしくなる。
家に友達を呼んでいても、父が帰ってくると友達に帰ってもらっていた、明らかに父親の不機嫌そうな態度が俺には耐えられなかった。なんだかすごく悪いことをしている気分になった。
基本的に俺に話しかけて来なかった。無言の圧がめちゃくちゃある人だ、足音で機嫌が分かるくらいに俺は怯えていたし、大学に入っても父親が背後を歩くと身震いしながら鳥肌を立てていた(これ本当。ビビりすぎだよな笑)
それぐらい俺に対して恐怖心を与えるような怒り方や、普段の態度が親父にはあった。
受験期の時、俺と弟のケンカが原因で、両親がケンカした。父はその勢いで出て行くと言い、本当に一回外に出た。俺はめちゃくちゃ反省して"俺が悪い"と繰り返し紙に20枚くらい泣きながら書きまくった(ハリーポッターの反省シーンかよ笑)。それを見つけた母親が俺に謝ってきたのを覚えてる。
今思えば多少不安定な家庭だったなと思う。俺の繊細さを誰も理解していなかった、だから強く振る舞うしかなかった、もともと図太いヤツとは訳が違う。
とにかく、圧倒的な恐怖を無意識に俺に与えてきた親父が、このタイミングでめちゃくちゃ頼りないのである。すごくすごく背中が小さく見えている。あんなに俺を怖がらせたのに、圧をかけていたのに、こんな時に頼りないなんて本当になんなんだ。イメージ通りなら、その強い雰囲気で状況を整理して俺を安心させて欲しかった。
結局、弱い人間だから、稚拙だから、暴力と恐怖でしか教育ができなかったのか。弱い者に対して乱暴な態度しか取れなかったのか。そう思うと本当に悲しくなる。やり場のない怒りも湧く。
そんな父に同情もする、"同情なんかしないでもっと怒りをぶつけろよ俺!それぐらいのことをされてきただろ!"とも思う。
ガンが発覚した瞬間に、本当に誰も頼れない、俺が母に精一杯寄り添い少しでも幸せにするしかないと腹を括った。
とはいえ少し親父の目線に立つならば、宮城の田舎者が勇気を振り絞って東京に出てきて、子持ち3人のシングルマザーと生きていくと決めた覚悟というのは生半可なものじゃないと思う。今までの環境と何もかもが違うストレスもあったと思うし、全てをかけて東京に出てきて、急に家で留守番が増えたのも納得いかなかっただろう。(俺への暴力は許さないけどな)
親父にとって間違いなく母は全てだったと思う、それはこれからも。そう俺が気付いたのは葬儀の後だった。
11月28日
久しぶりに仕事復帰し、社員遠足的なイベントがあった(すげえ楽しかった)。その帰りにもこのnoteをまとめていたが、今までちょっとまとめるのをサボっていた罪悪感もあった。しかし、この莫大な気持ちをまとめてしまうと、まとまってしまうことでいろんな感情が要約されてしまうと思った。莫大な気持ちを莫大な気持ちのまま感じていたい自分もいると気づいた。今まで向き合えなかった・単に後回ししていただけと思っていたが、それに気づいた時妙に納得感があった。そんなこともあるんだなと、まあそう簡単にまとまらないよな。でも残さないと、もったいない、できるだけ書きまくるのがベストだな。これからも更新するかもな。
でも一旦ここまでまとめよう。(2023/12/07)
母からたくさんの愛情を受け取った。
これからは俺が周りの人に愛情を与えていけるように生きていきたい。