脳内会議:月の満ち欠けを観て
はじめに
まずはじめに、この文章は映画『月の満ち欠け』というひとつの物語を観たことで、記事の筆者の脳内で行われた無秩序な会議をまとめたものであり、一個人の意見です。決してこの文章に書かれた意見を誰かに強要するでも、多数派だと思ってるわけでも、そうでない人を否定するわけでもありません。意図なんて何もない、単なる自己解釈のための脳内会議の議事録ですので、その点をご了承の上、ご覧いただくようお願いいたします。
先に簡潔に述べると、私自身の価値観とは異なることが多々あり、気になったことをつらつらと考えているような状態です。作品自体や作者様を貶すような気は一切ございません。
尚、原作については未読で、映画を一度観ただけの、鑑賞直後の文章です。
また、私は国語(特に現代文)において、筆者や登場人物の心情をこたえるような問が何よりも苦手です。
原作者様や映画監督様、その他関係者の方々の意図とは異なる解釈や理解をしている可能性が大いにありますが、ご了承ください。
哲彦と瑠璃
ゆいの娘として生まれ変わった瑠璃と哲彦の再会シーン、結局映画では魂としての再会として描かれていたと思うのですが、結局あの2人はどうなったの?
瑠璃は走りながら正木瑠璃の姿にかわり、哲彦も出会った当時の若い見た目をしていたので、あれは魂の再会。時間が経っても、会えなくなっても、2人ともずっと思い合ってた。出会えてよかった。
けれど、脳内に住む、圧倒的現実主義者の私は言う。
「実際の2人(50歳近い哲彦と7歳の瑠璃)の再会はどうだったの?」
はい。現実主義者なんです。本当に。嫌になるほど。そんなこと考えなくていいんだよ! ってことを考えてしまう。
でも作品の中でも言ってたじゃない。「会ってどうするの?」いや、会うべきだと思う。別に恋愛が全てじゃない。会って始まるものは恋愛ではない、別の何かかもしれない。ゆいも「終わるかもしれないけど、別の何かが始まるかも」って言ってたし、それはすごくわかる。
だからこそ、何が終わって何が始まるのかはすごく気になるところだったのに、魂の再会だけだったのは少し残念。っていうのは、作品として残念なわけではなくて、純粋に私が知りたいから、教えてほしかったから。
もし、万が一、原作で描かれているのであれば読んでみたいので教えてください。
作品内における輪廻転生
輪廻転生早くない????
映画を一度観て覚えてる範囲で、なので、定かではないけれど、記憶では小山内夫婦の結婚が1980年、正木瑠璃の事故死が1981年、小山内瑠璃の18歳の誕生日と死が1999年、緑坂瑠璃が7歳になって記憶を取り戻すのが2007年。
1999年18歳ということは1981年生まれ。それってつまり、梢の体内に生が宿ったのはト月十日に則せば1981年の1~3月頃で、でも正木瑠璃が死んだのも1981年だから、1~3月に死んだのであれば、転生は可能ではあるけれど、もう死んだら即、母親選んで生まれ変わりの手続き(とかいったら風情の欠片もない)してるってこと? それとも、受胎した時点ではまだ魂は宿ってなくて、数か月後まであの胎児の魂、誰がなる?って魂は空席状態なんだろうか。
個人的には命が宿った時点で魂も存在していてほしいので、後者であってはほしくない。そもそも医療とか妊娠の話にも詳しくないから、"命が宿るタイミング"って受胎したときなのかどうか知らなくて、適当なことを言っている自覚はあります。
小山内瑠璃の死が1999年で、緑坂瑠璃の7歳の誕生日が2007年。つまり、緑坂瑠璃は2000年生まれ。ゆいは2000年の3月までに身籠ってるということ。……え、今整理してて気づいたけど、高校卒業前に身籠ってるのか?? 親友を事故で亡くし、卒業前に身籠ってるゆいどういうこと? 旦那の存在は映画内では一切出てこなかったけれど、もしかしてゆいも壮絶な8年間を生きてきてたりする……?
瑠璃は今回も死んだ直後から未練や執着が残ったままで「すぐ生まれ変わらなきゃ!」って転生してるのだろうか。そうなってくると、ゆいが身籠ることになったのは自然なのか、何かの因果なんだろうか。
このスピード感、尋常じゃない。今までみてきた転生もの、しかも「子どもが雲の上から母親を選んでる」のような話をするもので、圧倒的なスピード感で転生してる。とてつもない執着。
せっかくの美しい話をこんなふうにとらえてしまう自分の脳のいち住人、解せない。
ちなみに、梢とみづき(漢字がわからないためひらがな)に関してはもっと苦しい。先の、どのタイミングで魂が宿るのかという件で、かなりややこしい話になってくる。
ゆいによると、小山内は事故後すぐに八戸に帰っている。その引っ越しの荷物を運び入れてるとき、介護をする荒谷のお腹は既に大分大きかった。……もう受胎してからだいぶ経ってるじゃないですか……。この時点でまだ荒谷の胎児の魂は空席だった? いやさすがにそれはつらい。じゃあ、梢が死んでから、その執着によって、「そのお母さんの子どもの席、譲って!変わって!」的な、席の譲渡が行われた?(もしそうなら譲ってくれた人めちゃくちゃ優しい。或いは梢の魂の力すごすぎたのか)
とにかく梢とみづきに関しては、あくまで映画の描き方に関していうと、転生のタイミングがおかしい。ちょっとこわい。
「こわがらないで」と言われても、スピード感とかタイミングとか、さすがにちょっとこわい。作品内のこわがらないで、は、きっとそういう意味の"こわい"じゃないけれど。
小山内はなかなか受け入れられなかった転生話。正木と哲彦は理解とか受容が早いな。これも関係性とか本人たちの執着の違いだろうか。執着が残った人間は記憶を残して転生する、的なことを瑠璃は言っていたけれど、もし正木が死んだ場合、この人もまた執着とか未練で結局瑠璃の魂の傍から離れなさそうだなって気もしてくる。
そういえば瑠璃は自分の名前に対する執着もすごい。相手に伝わる様に、だろうけれど、生まれる直前に母親に名前を瑠璃にしてほしいってお願いしてまで、瑠璃として転生し続ける。一方でみづきとして転生した梢は名前は変わることもあるんだなって。それとも席の譲渡で急に生まれることになったから、名前をお願いする余裕なんてなかった?(だから風情)
私と転生
想い合っている人同士が再び巡り逢うために輪廻転生している、という考え方もその出会いも関係性も、本当に本当に素敵だと思う。大好きな人がいて、ずっと一緒にいたい人がいて、そんな人と来世でもまた巡り逢って再び恋に落ちる。理想だ。素敵だ。
でも私自身は輪廻の中にいたくない。輪廻転生しない人もいてほしい。全員が全員輪廻の中で転生をしているとは思いたくない。覚えてるとか覚えていないとか関係なく。
もし全員にあてはまるのであれば、それこそ正木もまた瑠璃の近くに転生しそうだしな。
今の友人関係に不満はないけれど、家族との仲はそれほどいいものではなく、パートナーと呼べるような存在もおらず。そんな自分が輪廻転生してるんだとしたら、前世ではどんな人を大切に思っていたというんだろう。なぜ今世では出会えてないんだろう。もしこの人生を繰り返してるんだとしたらとても不毛だ。そう思えてならない。
例えばアイドルや芸能人にガチ恋してるけどあくまでずっとテレビの向こうの存在で、認知や接触は一切ない場合、この人とはずっとこの距離感なんだろうか。絶対近づけないんだろうか。そんなの寂しすぎる。チャンスくらいあってほしい。
転生したからって同じ関係性とは限らない。
確かに。今作もそうだ。夫婦や親子という関係から、会おうと思えば会えるけれど、完全な他人へ。片手ほどの年の差の他人から、親子ともいえるような年の差の他人へ。
でも私は転生しない、ゼロの縁から始まる人生もいっぱいあると思いたい。
そしていつか、転生してまたこの人に会いたいと思える人に出会いたい。