微笑と眼差し[600]
10年か20年か前、毎日電車で通勤していた。
キオスクで購入する朝刊と、頭上のラックに残された少年マガジン。
数独、単語帳、競馬予想。いろいろな大きさの紙が広げてあったけど
もちろん、小説やら学術書やらを読んでいる人もたくさんいた。
それで、彼らの読み終わりに立ち会うことも多々あった。
ぼんやり眺めていると
読了後、ページも閉じないで、ひとつ息をつく。
凝り固まった体をほぐせば、そのあと、あとがきを読む。
表紙をながめて、あらすじや目次に「ふむふむ」と、したり顔でうなづく。
うん。
私は、本が好きだ。
好きなふうに、想像できるから。
私は、本が好きだ。
好きなスピードや順番で、話を理解できるから。
電車が駅に到着して、本を閉じたとしても
誰かに話しかけられて、微笑みを返しても
まだ胸に残っている、あの本の記憶。
…そんなもの、すぐに忘れてしまう。
たいした成果も、深い意味も隠されていない
けれど、それでも
あの表情を見る機会、減ったなと思うのです。
あれは、優しげで、儚げで、困ったような、細められた瞳。
どこか苦しげで、恍惚とした横顔!
コンビニや図書館で、時計を見て慌てて去っていく彼ら
いくつか本を積んだテーブルで、姿勢を変えながら物語を進めていく人々
目まぐるしい暮らしの中で、
美術館なんかに行かなくっても
あの真剣で、楽しげな眼差しを見られたこと。
名前も知らない人の、触れられない美しさ。
それが、私を生かしていた。
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