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石見銀山遺跡世界遺産登録

 6月28日(2007年)昼間、某国営放送の全国ニュースで石見銀山遺跡が世界遺産登録に決議されたと報道があった。島根県の遺跡のニュースが全国放送されることなどめったにない。まして5月にユネスコの諮問機関(イコモス)が遺跡の普遍的価値の証明が不十分であるとして登録を延期するように勧告したとわかり、地元民としては「やはり・・」という思いと「でもねえ、お願い!」という気持ちが交錯していた。
 29日はきっと新聞紙上をにぎわすだろうとかなり期待していましたが、宮沢元首相がなくなる、株主総会のピーク、元公安庁長官逮捕などの記事におされ、一般紙の東京版では小さい記事だった。しかし、地元の新聞は第一面の90%がこの世界遺産登録関連の記事で日本中が騒いでいるような取り扱い。まあ、地元の涙と努力の結晶ともいえるこの結果ですから、お許し頂かなくてはならないでしょう。

 世界遺産登録へのアプローチは1995年秋から。石見銀山周辺の整備が始まり2001年に世界遺産暫定リストに登載。このあと国際シンポジュームを開いたり専門家会議を開催したりを重ね、2005年に政府が世界遺産に推薦することを決め、と長い歳月がかかった。その間に平成の大合併で新大田市が誕生し、県も市もそして何より地元の人々が東奔西走した。
正式には「石見銀山遺跡とその文化的景観」が登録、ということ。

 石見銀山遺跡は16世紀前半から20世紀前半にかけて操業された銀鉱山本体と銀の積み出しに利用された鞆ヶ浦と沖伯の港、港を結ぶ銀山街道鞆ヶ浦道と銀山街道温泉津沖泊道の2本の街道、戦国時代尼子氏と毛利氏が銀の領有権を争った矢滝城・矢筈城跡と大森と温泉津の町並み保存地区が含まれる。  江戸時代の日本の輸出品は絹と銀だと習った人も多い。この時代の銀は日本が世界の30%を産出しこれを担ったのが石見銀山。今でも龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)など典型的な坑道が石見銀山に残り、シルバーラッシュの当時をしのばせるノミの跡など保存状態は大変よく当時をしのぶことができる。
 石見銀山の見学は列車でJR松江駅から山陰線で大田駅へ、ここからバス。車を使って出かけ、石見銀山遺跡や大森町並みを見るには専用駐車場から、バスかレンタサイクル。登録が決まってから観光客対策が始まり、ルートの照会から宿、周辺観光の案内まで地元はおおわらわだとか・・・
 お勧めは、石見銀山遺跡、大森周辺の散策、温泉津温泉、三瓶山の景色、石見焼など。ちなみに世界遺産登録前から東京・大阪に進出し、暮らし方を提案している石見郡言堂の本店はこの保存地区大森町の中にある。
 今年の5月の連休のとき、TVドラマの舞台になったことから、全国から観光客が押し寄せ、町中かなりの混雑だったとこちらのニュースの話題になった。
 いずれにせよ、山間の小さな町、リアス式の海岸を利用して作られた海岸、ひっそりとたたずむ温泉街など、世界遺産に登録されたことでどんなふうに変化していくかも興味のあるところだ。江戸時代の繁栄が400年後また観光客をよぶ要因になったとは・・・当時の鉱山関係者は草葉の陰で驚いていることでしょう。ただ銀があったから銀を掘ったことなのにねえ、閉山された大正年間から、今日まで大事にそのまま遺跡をとって置いたのが良かったんだねえ、と。
ゆうこの山陰便り NO.39 

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