私の母について。。。
昨日、父のことを書いたので、今日は、母の日だし、母についても書こうと思います。母の名前は、倭子といいます。シズコです。3人兄弟の長女です。生粋の江戸っ子です。(父もですが)本所吾妻橋のあたりで生まれたみたいです。生年月日がはっきりしません。戸籍では、1937年4月23日となっているのですが、5月23日だっと言ってます。そして、うちの叔母とは、5歳違うはずです。ので、そう考えると1938年生まれではないかと思うのですが。昔はそういうことがよくあったみたいです。家系が、少し複雑です。上の家と、下の家と親戚が分かれていて、母の家族は、下の家だそうです。格差があったようです。母の家は、すごく貧しかったと聞いています。しかし、親戚の手前、貧乏なのに無理して、中学から私立の愛国学園というお嬢様学校に、通っていたそうです。臨海学校があった時、両親に、水着を買ってと言えなくて、おじいちゃんのランニングシャツを、小豆で染めて、自分で水着を作ったと言っていました。でも、海に入るとめっちゃ伸びて、すごく恥ずかしかったと。中学に入学するときに買ってもらった革靴も、高校生になったあたりで、壊れて履けなくなって、下駄で学校に通っていたらしいです。高校3年になる前に、おじいちゃんが働いていた会社が倒産して、やむなく高校を中退したそうです。その間も、いとこと一緒に日本舞踊のお稽古に行ったりしていたらしいです。金持ちのいとこの親が子供に、習わせたかったみたいです。それは、それで楽しかったと言っていました。
うちの母は、高校中退後、品川プリンスホテルで、働いていたようです。そうそう、高校に行っていた時も、両親に内緒で、アルバイトをして、すごく素敵な瓶に入った香水を内緒で買ったのです。一回も使う前に、落として、瓶は粉々に割れた。その時に、親に背いたりして、学校で禁止されているようなことをするとバチが当たるのねって思ったそうです。母は、あの時代の言葉でいう、ハイカラなことが大好きだったようです。洋画も大好きで、よく映画館に通った。そして、山ガールだったみたいです。あと、フォークダンスのグループにも入っていて、めっちゃ素敵で、ハンサムなボーイフレンドがいました。その方に、プロポーズされたのですが、彼は、母より何歳か年下、うちのおじいちゃんに猛反対され、その方と別れたそうです。そして、同じグループだったので、山も、フォークダンスもやめなければならなかったと。。。
そして、うちの父と、見合結婚するのです。うちの父と母、全く正反対です。モダンガールと、ガキ大将上がりの不良青年。父の趣味ギャンブルとお酒。母の趣味、日本舞踊、フォークダンス、洋画鑑賞、登山に冬にはスキー。そんな二人の間に生まれた私。どちらかというと、父のDNAの方が強いような気がしますが。うちの母は、ふたご座です。全く星座占いどうりの性格です。小さい頃は、すごく厳しく育てられました。でも、心の中では、もっと奔放に育てればよかったと思っていたようです。(まあ、私は、厳しくされても、かなり奔放でしたが)愛情たっぷり注がれました。すごく過保護に育てられた。父には、なんでも買ってもらったので、その時代に流行っていたおもちゃは、全部持っていた。本当に、長女の特権ですが、ある日、家族でデパートに行きました。私は、モーターで動く子供用の車を見つけます。欲しいって大騒ぎしました。その車、1ヶ月の家賃より高かったそうです。で、父が、いまこの車買えるお金持っていないから、今度ね。私は、ここで待っているから、家に帰ってお金持って来て!と言って微動だにとも動かなかったそうです。はい。買ってもらいました。でも、モーターで動くと言っても子供用なので、結構遅い。近所の子が持っている足で漕ぐタイプの方が断然早い。なので、全然乗らないで、ベランダに悲しく置き去りになりました。その後、足で漕ぐタイプも買ってもらいました。あと、その頃、テレビで、有明のハーバーという焼き菓子のコマーシャルが流れていました。私は、それが食べたくて食べたくて、私と父は、そのお菓子を求め、探し回るのですが、私たちがいったデパートには、売っていませんでした。私は、ハーバーの代わりに、おもちゃの刀を買ってもらいました。そして、近所の子供とチャンバラごッごして遊びました。母は、父と全く逆です。まずは、以前書きましたが、小学生の時にエレクトリックベースを買ってくれっておねだりした時に、ロックは、不良の音楽だからダメって言われ(母が病気になって、私がしばらく日本に帰っていた時に、母が、なんであの時、あんなこと言ったんだろう。あの時に、あなたにギターを買ってあげていたら、あなたのミュージシャン人生変わっていたかもしれないのに。。。と言っていた。)あと、小学校のときみんなで回し読みした雑誌、平凡と明星は、禁止だった。理由は、教えてくれなかった。そして、門限過ぎると、町中探し回って、迎えに来た。なので、子供の頃は、母の前でいい子を装っていました。まあ、うちの弟が、小さい頃自閉症だったので、母は、弟にかかりっきりだったから、私は、結構自由だった。ただ、母の前でだけ、いい子にしていた。厳しかったけど、その反面、中学の学生服の改造を手伝ってくれたり(スカートは、限界まで長く、セーラー服は、短く)、私がガールズバンドをやっていた時は、ボンテージの衣装を作ってくれた。
私のライブにも来てくれたし、大人になってから、なんでも話せるようになった。よく彼氏の話を母に相談してた。そして、あなたみたいな人は、彼氏が3人ぐらいいた方がいいね。一人いなくなっても、あと二人いるから大丈夫て思えるからねって!めっちゃ開けている母!私のニューヨーク市立大学の卒業式に、母は、初めてニューヨークに来ました。その時私は、たくさんの友達を母に紹介しました。でも、英語が話せないのが悔しくって、日本に帰ってすぐに、英語の学校に通うようになりました。駅前留学ってやつです。毎日、NHKの朝のラジオで、英語の勉強もし、駅前留学を週に3回個人レッスンを受けていました。その2年後、ニューヨークに遊びに来た時は、毎日英語の学校に通っていました。
アメリカでは、インターナショナルステューデントは、大学を卒業すると、1年間のプラクティカルトレーニングというビザがもらえます。私は、卒業してすぐにそのビザを申請しました。が、待てど暮らせどビザが降りない。私は、学生ビザをつなぐためにエステティシャンになるための学校に行くことにしました。そのことを母に話すと、そんな、保険かけるみたいなことしたら、本当の夢がつかめないよって言いました。あなたの人生だから好きにすればいいけどって!
父がなくなって、その後、一人で東京のアパートに住んでいるときは、活発にいろんなことをしていました。そう、埼玉県の草加市におじいちゃんが住んでいた家がありまして、まだうちの父が生きているときに、リフォームしたんです。確か、バブルの終わりかけぐらいの時期だったと思います。リフォームしたら、引っ越すはずだったのに、父が、俺は江戸っ子だから、東京を離れるのが嫌だって、ことになり、結局、弟と、うちの母の弟、(私の叔父です。)が住むことになりました。弟も、若くして結婚したので、その後2年ぐらいしか住んでおらず、叔父も早死にしたので、しばらく空き家になっていました。母は、月1ぐらいに、掃除したり、庭の手入れをしに行っていたようです。
母は、父の7回忌が終わったあたりで、東京のアパートから、草加の家にに引っ越しました。その頃から、またフォークダンスを始めます。英語の学校も続けて行っていました。英語使う場所が無くって全然上達しないっていうので、アメリカ人の友達を2週間ホームステイさせたりしました。そして、2011年3月11日の東北大震災です。うちの庭の大きな木が折れ、屋根に激突しました。そして、屋根は破損しました。その日は母、風邪を拗らせていたため、すごく心細かったようです。本当に、怖かったのだと思います。その頃から、少しづつ、鬱々とした日が続くようになります。あんなに頑張っていた英語もやめて、もう早く死にたいって言ってました。フォークダンスは、続けていたみたいですが、ある日、空き巣にあいます。うちの母が、フォークダンスの会費を預かっていて、そのお金10万円以上、盗まれました。窓を破られて、そのお金の他にも、ゴールドネックレス(ごっついやつ)、カメオのブローチといった金目のものが盗まれました。その時も、相当怖い思いをしたので、余計に全てがどうでもよくなって行ったようです。そう、その頃もう母は、シニアシチズンで、70歳以上の一人暮らしのお年寄りの家には、民生委員が月に1回尋ねてくる。困ったことがあったらその人が、アドバイスしてくれるそうです。その方の紹介で、年寄りのいくデイケアセンター見たいのに週1で大きいお風呂に入りに行っていました。いろんなもイベントがあって、暇つぶしにちょうどよく気に入って行っていました。年はとっても、うちの母綺麗です。一人の男性に言い寄られて、気まずくなって、そこにもいかなくなりました。私は、週に1回スカイプで母と話をしていましたが、その時だけは、いつも元気だったのです。
私は、年に1度日本に帰省します。それは、日本ツアーをするためでもあるし、母に会うためでもありました。2012年の秋に日本に帰った時、母は、私に若い頃の写真を沢山の見せてくれました。そして、昔プロポーズされた彼の写真も見せてくれました。その時に、香水の話や、若い頃の話をたくさんしてくれました。私のライブは、その年は、東京、草加と、2本だけでしたが、母がお友達をたくさん連れてきてくれました。その頃から、物忘れがひどくなります。私がニューヨークに帰る日を何回いっても覚えられず、歯医者の予約をとってしまった。それも、その前の予約も忘れていけなくって、だから、今回は、成田空港まで送ってあげられないからと、途中の駅まで送ってもらいました。その時に、今生の別のように、いつまでも大きく手を振っていました。
2013年の4月のはじめに、母が、あなたの言っていることは、全部わかるのに、テレビが何言っているかわからない。っと言ったのです。すぐに弟と連絡を取り、近所の脳外科に予約を取りました。そして、すぐに大学病院に推薦状を書いてもらい、検査ということなり、そのまま入院になりました。私は、すぐに日本に帰りました。その頃には、母は、もう自分の名前もかけなくなっていました。脳腫瘍です。手術の日がなかなか決まらずゴールデンウィーク明けになりました。私は、1度ニューヨークに帰り、手術の日にまた、日本に行きました。母は、目に大きな涙を溜めていました。そして、毎日自分の名前を書く練習と、私と弟の名前を何度も書いていました。忘れないようにと。。。手術が終わり、リハビリに入ります。もう余命は聞いていました。腫瘍は、取りきれなかったのですが、言語障害が手術前より少し良くなり、調子がいいときは、少し話をすることもできるようになりました。そして、2014年1月7日に母は、天国に旅立ちました。
私は、Motherという曲を今、書いています。大学の時に半分だけ書いて、ほおっておいた曲です。英語で書いているのですが、内容は、あなたの愛が深すぎて、重すぎて、苦しいという内容でした。今、少し変わっています。なかなかまとまらない、母との思い出を汚したくないし、でも、正直な気持ちを表したい。。。いつできるかわからないけど、早々に書き上げようと思います。
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