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私の弟

父のことと母のことを書いたので、今日は、弟のことを書こうと思います。まあ、弟は、まだ健在なので弟がこの文章を読むかもしれないということを考えて、書かないとっと思っています。なぜそう思うかというと、弟があまり思い出したくないという幼少の頃の話も含むからです。弟は、その頃の話になると全く覚えていないといいます。そして、その頃の写真も一切ないです。(多分捨てたのだと思います。)弟は、私の3つ下です。小さい頃は、本当に、可愛かった。よく女の子に間違われていました。私は、その逆で、男の子に間違われていた。うちの弟は、小さい頃自閉症でした。本当にレインマンみたいだった。自閉症とわかる前は、神童だと思っていました。なぜかというと、子供用の百科事典の乗り物の本と宇宙の本が大好きで、ボロボロになるまでいつも見ていました。そして、いつも、宇宙がどうとか、重力がどうとか、ブツブツ言っていました。まだ、幼稚園に行く前に字が読めて、数字にも強かった。そして、とても繊細な子でした。家族で遊園地に行った時、私は、ものすごい勢いで乗り物のところに走って行ったりするので、いつも弟は、私のことが心配で”お姉ちゃん手を繋がないとダメだよ!迷子になるよ!”と言って泣いてました。そして、私たち家族が住んでいた都営住宅のお祭りに、ゴレンジャーが来た時も、テレビでゴレンジャーが大好きなのに、ゴレンジャーが怖いって言って泣いてました。極め付きは、電車に乗っているときに、外人さんがいると、外人怖いって言って泣いてた。(これは、フロレスのテリーファンクとドリーファンクのファンになって、克服しました。)

そして、弟には、吃音があります。これは、今だに少しあります。幼稚園に行くようになって、とてもいい先生が担任でその先生が、弟のことを少し変わっているのは、劣っているということではないです。ただとても繊細なだけです。だからお母さん心配はないですよ。っと言われてうちの母は、本当に救われたっと言っていました。でも、本当にレインマンみたいになる時があります。ある日、窓から、大切にしているおもちゃや、お金が入った自分のお財布を窓から落として、落ちて行くのを見ていました。うちは、9階です。そして、僕も死んだことがないから、ここから落ちて見るって言ったのです。うちの母は、その時、めっちゃ泣いていました。そして、その頃から弟は、毎週土曜日に、セラピーに通うことになりました。帰りには、いつも喫茶店によって、クリームソーダーを飲みに行くらしいです。私が、弟に何してきたの?と聞くと、ただ先生といろんなことして遊ぶだけって言っていました。

うちの両親は、弟に一番流行っているおもちゃをたくさん買い与えました。近所の子供がうちに来て弟と遊んでもらうためです。ファミコン第一世代もうちにありました。テレビに繋いでテニスするやつです。同じ階に住んでいた、うちの弟と同級生の博貴くんにはとてもよく遊んでもらいました。そして、小学校高学年になったあたりで、セラピーに行かなくなりました。何年も行っていて症状があまり変わらないので、やめたのだと思います。その頃からだんだん、よくなっていきました。そして、6年生になった頃に、地域の少年野球チームに入りました。その頃には、レインマンは消えていました。

そして、中学生になったあたりから、凄くモテるようになります。なんか知らなけど、硬派でいい男になっていた。私が、バンドを始めればい、私の影響を受けて、ロックを聞き出す。そして、私の彼氏たちとも仲良くしていたことを覚えています。ある日、弟に、あんたなんでそんなにモテるのって、聞いたことがあります。弟は、彼女だけに凄く優しくするからじゃないか?っていっていました。他の女子には冷たいらしいです。中年オヤジになった今は、全ての女性に優しくしているみたいですが。。。今でも、本当に人ったらしです。彼は、大学を中退して、会社員になりました。営業マンです。いつも成績ナンバー1で、25歳の時に、東京営業所の支店長になりました。

そして、この頃、結婚して子供が生まれます。おうちお父さんは、大喜びでした。まさか、あの自閉症だった弟が結婚して、子供まで授かるとは、っとめっちゃ喜んでました。結婚式は、家族と親戚だけで、川崎の日航ホテルでささやかに行われました。私も、ニューヨークからこの日に合わせて帰ってきたのですが、私は、その時のボーイフレンドがホテルリージェンシーに泊まっていて、ゆうこも来ていいよって言っていたので、実家じゃなくそこに滞在していました。うちの父が、絶対に遅刻するなよって、電話で何度も言われたのですが、案の定遅刻しました。父がホテルの前で待っていたのを覚えています。その時、川崎の駅で、高校の同級生にばったり会ったのです。”あれ、ニューヨークに住んでいるんだよね?もう帰ってきたの?”私”今日これから弟の結婚式なの、今度会うときは、ニューヨークからプライベートジェットで帰ってくるから”と言って別れたそうです。(私は、覚えてないですが、次にその同級生に会ったとき言われました。)

弟は、そのままどんどん出世街道まっしぐらでした。社長にも凄く可愛がられて、時期専務って言われていたほどですが、そんな彼に転機が来ます。会社が合併することになりました。ほぼ吸収合併っということで、弟の専務になる夢が少し遠のきました。その時に彼に会社から大きなアサイメントを言い渡されます。会社が大きな工場を建てることになり、それが成功すれば、弟は、出世街道に乗れるというものでした。もちろんやり手の弟君は、そのアサイメント成功させるのですが、その頃から少しずつ不況になっていきます。そして、弟は、名古屋に転勤になりました。その転勤が終われば本社に帰れると思っていたみたいなのですが、今度は、北海道に転勤を言い渡されました。そして、その転勤を断り独立することになるのです。

この独立のタイミングが絶妙で、丁度母の脳腫瘍がわかった時だったのです。私がニューヨークに帰っている間は、毎日弟が母の看護をしていました。高速を使っても車で2時間かかるそうです。それをほぼ毎日やってくれました。本当に、もし普通の会社員だったら、こんなことできなかったです。この頃から、私と弟は、またすごく仲良くなります。もともと仲は悪いわけではなかったですが、ずっと、ニューヨークに住んでいるので、年に1回話せばいい感じでした。でも、弟は、私が日本ツアーをやれば必ず1回は、観に来てくれます。弟が名古屋に単身赴任だった時も、名古屋から大津まで車を飛ばして、ライブを見に来てくれました、そして、バンドのメンバー全員に出前もとっておごってくれました。

今は、自営業で、社長さんになった弟ちゃんですが、私は、毎年日本に帰ると1日だけ会いに行きます。その時に、日用品を爆買いします。弟ちゃんが全部買ってくれます。そして、お小遣いももらいます。そのもらったお小遣いから、私は、姪に、お小遣いをあげます。私にとってお兄ちゃんみたいな存在です。

このコロナ騒動の中、心配して電話をかけて来てくれました。久しぶりなので少し長電話になりました。翌月携帯の請求がきて、びっくり、ニューヨークは、かかって来た側も料金が発生するのでした。1分3ドル!次に弟からかかって来た時に、Lineのアカウントを作って!と頼みました。(ちなみにうちの弟意地でもSNSは、やらないと決めているみたいです。)ガラ軽とスマホの2台持ちですが、そこだけは、譲れないみたいです。昨日、電話の請求書がまた送られて来て、海外通話は、1分25セントに変わっていました。そして、インターネットもアンリミットになっていました。アメリカの電話会社このご時世に臨機応変ですごい!!早速弟に電話してみようと思います。




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