「スポーツに政治を持ち込むな」というゾッとする言葉
「スポーツに政治を持ち込む事の是非」という議論がネットでなされている。スポーツが行われる体育館に、あるテニスの有名選手が黒いマスクに白人警官に銃撃された黒人市民の名前を書いてコートに入ってくるという政治的行為が許されるのかと言う議論だ。
私はこの議論に参加する気はない。何故なら議論として成立していないからだ。
皆さんは「○○○ダンクの漫画の31巻でさ、軽音部の唯ちゃんがさ、体育館のバスケコートで3点差試合残り3秒でダンクしたのがチームの敗因では?」という議論に参加する気なんてあるか? あの作品で唯ちゃんがバスケ部のインターハイに参加する場面なんてないし、あのカスタネットJKがダンクなんて決められるわけないだろう。「あと3秒、リバウンド―」とリングの上で回っているバスケットボールを両手で持ってダンク決めて「もどれぇ。狙ってくるぞぉ」なんて言うわけがない。つまり議論の前提になる事実がないのだ。
この体育館のコートにテニス選手が黒いマスクをしてくる議論も同じである。「スポーツに政治を持ち込む事はいいか悪いか」という議論の前提になる「スポーツに政治を持ち込んでいる」という事実がないのだ。そしてそれが政治的であるという前提で話が進んでいるのが、一番ゾッとするのである。
私はBリーグが好きなんだけど、スポーツの試合前に体育館で直前に起こった事件の被害者を悼んでコートや客席でみんなが黙祷を捧げる事ってよくあるよね。あれはそもそも政治的な事なのだろうか。例えば学校の教室で無差別に襲われた被害者の子供の為に体育館の客席でみんなが祈ることは政治的な事なのだろうか。
あるスポーツ選手が試合会場の体育館にやってきたとき、彼女の黒いマスクに書かれていた女性。彼女は病院のスタッフとして働いていた善良な市民だったが、自宅にいたところを突入してきた警察官に部屋のベッドで冤罪で銃撃された。彼女は撃たれていい存在ではなかった事に議論の余地はないだろう。彼女の名前を付けたマスクをしたうえで「トランプ氏ね」と言ったのなら政治的な行為なんだろうが、この選手はスポーツをして優勝しただけである。
ビルの店舗のガラスをぶち破って店内のパソコンや服を台から持ち出してぶっ壊している奴、銃撃された白人保安官が運び込まれた病院の廊下で病室で暴れて治療を妨害した奴がいる事は聞いている。それが本当なら破壊者を批判するべきだ。スポーツ選手を批判しないで…だ。暴力をふるう奴らをスポーツ選手たちは支持していない。
障害者施設に侵入して部屋を回ってナイフでベッドに寝ている大勢を刺し、被害者が大勢出た事件があった時、19歳の娘が被害者となった母親に対して「そんなに大事なら施設に預けるな」「本当は殺された方が負担が少ないと思っているんだろう」とネットで暴言を吐く連中がたくさんいた。この国(に限らんが)では被害者がマイノリティであれば、被害者が暴力で傷つき家族が苦しむことを悼むこと、怒る事さえ、「議論の対象にされる」なのである。
私は、選手を批判中傷する人間は差別をしているわけではないと考える。もっと恐ろしい事、誰かを悼んでいる人間に対して誰を悼むのかを指導する行為をしているのである。「政治的」という言葉を使って。
BLM運動を批判する事、懸念する気持ちは尊重されなければならない。だが「黒人の命も大切であり、マスクの名前の人たちは撃たれていい存在ではない」事自体は政治的でもなんでもなく、ごく当たり前の事なのだ。政治的とは「議論されるべき事」である。自宅の寝室ベッドにいた犯罪も犯していない黒人の命の大切さは議論の余地のある事なのか?
しかし笑っちゃったのは「あんなメッセージをつけて体育館で試合やったら、相手の白人選手ビビるだろ」という人がネットでちらほら。ビビらねぇよ。スポーツの世界で高め合っている相手選手が「人の命が大切だ」という当たり前のメッセージをつけて現れてビビるか?
本当に競技に対して敬意がない人たちである。