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JK-グラフィックで博物館で受賞した女子高生を愚弄したフェミとセクハラ連中が仲良く統一教会に入信すべき理由。

 博物館の展示室で展示されていた作品で賞を受賞した女子高生の絵が問題になっている。グラフィックの内容はメイドのお姉ちゃんが下着姿でウェーイしている内容だった。R18というレベルではない

 だがこれを受賞した女子高生がツイッターで報告した途端「女子高生がこの作品を作ったというだけで興奮してきたのですが」「女子高生特定しようぜ」という今すぐ警察の留置所に入ってほしい「せくはらともだち」と「こんな作品が受賞したのは女子高生を性的に消費することをこの女子高生が許したからだ。だからおだてているんだ」「ホラホラ、あんなセクハラ男性に性的に消費するからこういうグラフィックに賞を与えるべきではない」という今すぐにDWIN賞でも受賞してほしいフェミニストがいた。

 こいつらに欠如しているのは3つ「児童福祉」と博物館展示室における「公共」そして毎度お世話になっている「表現の自由」の概念だ。

 まず「児童福祉」においては「子供は性の対象として扱われない」という権利がある。つまり子供が雑居ビルの2階のカウンターのお店でパンツ一枚でステージでテクノBGMに合わせてダンスをしているお姉さん(またはお兄さん)を鑑賞してはいけないのは「見る行為がヤバい」のではなく「見せる行為が問題」なのだ。何故ならレーザー服をつけて「どうだ、俺のp(以下略)」という行為もまた「子供を性的に扱う」行為なのは基本ガイドラインである。

 そしてここが重要なのだが「児童の権利」は児童の主体性を認めている。ああ、こう書くとフェミとかは「またか」と呆れる事は理解するが「児童の主体性」というのは「エロいことをする権利」には限らない。自分で教会の礼拝所で祈るか、それとも隣のプレイルームでテレビやコミックを見るかを選ぶ権利とかもそれである。それを大人に指図されない権利、自分で選んだ結果、大人から支援を打ち切られない権利である。つまり子供がエロい作品を書く権利と理解するのがどーしても無理なら、エロ作品を書いたとしても大人社会からの保護を打ち切られない権利である事を理解してくれればいい。

 次に「公共の意識」であるが、博物館展示室における公共とは「自分が理解出来る存在しか存在しないスペース」ではない。それは「世間」である。公共とは「誰かに理解されなくても存在していい」である。美術館における公共とは「自分が理解不可能な人物もよくわからんグラフィックを展示してそれを閲覧する人もいる」というものであり、そこにあるのは主催者の企画である。つまり「こんなグラフィックを書くなんて男性社会にHされることを女子高生が認めているからだ」というフェミは手前がそうでしか理解していないだけである。トリエンナーレで某院長と狂ったリコール署名している連中と仲良くしていればいいのだ。議会の議員が「俺署名してない」と告発しているけど。

 そして「表現の自由」であるが、表現の自由は「批判される受忍義務」と表裏一体だが、それは「表現をしたことを理由に本人が性的に扱われる」という意味ではない。「表現の自由は表現者と表現される人間の安全と尊厳と表裏一体」だからだ(だから本人が変えようのない属性を愚弄する作品は芸術ではないと思う)。それがない表現の自由は表現の自由ではない

 つまり「女子高生が美術館の企画室でエロい作品を展示しようがメイドのパンツが何色だろうが、女子高生は性的に扱われてはいけない」のだ。それが絶対唯一である。「こんな作品を書く女子高生は自分がエロく扱われてもいいと思う」というセクハラ連中も、「性的消費をさせないためにこんなグラフィックを書いた女子高生に賞を与えるのをやめるべきだ」というフェミその点を認識していない点で同じである。

さて、そんな皆さんへの理想の教会を紹介しよう。「統一教会」である。

5043e241eab8ea651700001a 文鮮明

見てほしい。統一教会の教祖でデカい講堂で合同結婚式で挨拶されるこのHG…優しいそうな誠のお父様(止ではないと思う)。一つの思想で社会を統一し恋愛や結婚や表現も教会の大人が本人不在で決定して、女子高生の人物や人格や安全などそっちのけで、全て統一原理の為に存在するからこそ価値がある。そこには人権意識も子供の主体性も必要ない、必要なのはお父様の愛だけ。

まさにフェミとセクハラで女子高生の作品受賞というイベントを壊した最低な大人連中にピッタリじゃん。今すぐに入信しよう。そしてプラスチックのバケットの営業員として売り上げを達成しよう。

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