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道祖神とドウロク神

先日見た文献に。

https://kyutech.repo.nii.ac.jp/record/4396/files/com_human29_p61_218.pdf

これは道祖神とドウロク神についての長い文献であったが、

https://sa4d6b00f1f29c6d4.jimcontent.com/download/version/1649225578/module/13935858790/name/20220406%E7%B6%9A%E5%9B%9B%E4%B8%87%E5%8D%81%E5%9C%B0%E5%90%8D%E3%83%BB%E7%AC%AC4%E7%AB%A0%E3%83%BB%E5%9C%9F%E4%BD%90%E3%81%AE%E3%83%89%E3%82%A6%E3%83%AD%E3%82%AF%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%81%8B%E3%82%89%EF%BC%88%E7%A5%9E%E7%94%B0%E4%BF%AE%EF%BC%89.pdf

もう少し簡素なものとして上のものがあった。

道祖神についてはご存じの方も多いと思う。定義としては「四辻などで境界を守るもの」としてwikiでは「道祖神(どうそじん、どうそしん)は、村境、などの路傍にあって外来の疫病悪霊を防ぐである。のちには縁結びの神、旅行安全の神、子どもと親しい神とされ、男根形の自然石、石に文字や像を刻んだものなどがある。」と記載されている。
「悪いもの」は基本的に他所から持ち込まれる、疫病などはまさにその例で、また土地を移動しながら悪行を働く強盗や泥棒などもいたことなのでその障りを防ぐ目的もあったのだと思われる。

それと同時に長距離を移動せざるを得ない事情がある際には、自らの出発点としての故郷の道祖神に「旅の無事」と祈る風習もあったかもしれない。

それとは別に「ドウロク神」という存在があり、こちらはほとんど研究されていない印象がある。道祖神が形を持った石の像であったりするのに対し、ほとんど伝承のみでこれがドウロク神である、とされた像がないせいかもしれない。
両者の名前が似ているためにこれらが同一のものなのか、まったく違う存在なのか、を論じた文献がいくつかあるが、基本的に「違う存在」とされていることが多いようだ。
ただ、決定的な違いを持ち出すにいは至っていない。

ここで双方の違いをもっと明確にしてみようと思うが、そもそも道祖神は「境界を守る」もっと言えば「結界」を守る存在であるので「その位置から動かない。」
ところがドウロク神は「道を行き来している。」ので全く違う存在と断じていいように感じた。

上の文献まで御覧になる方は少ないと思うし、要約したくても内容自体が非常に「密度の濃い」すなわち、「要約できないほど情報が集約している」文献なので私も何もできない。

ただ、一つこれらの文献を読んでいて気付いたことがある。

いかなる怪異であれ、悪魔であれ、悪霊であれ、はたまた神であれ、こちらの所在位置に「入る」には許可が必要である。
これは日本の話に限ったことではなく、むしろ諸外国でよくみられるが「招き入れる」もしくは訪いに対して「迎え入れる」ことがなければ怪異にもそれ以外の存在にも干渉されることがない。

道祖神には「塞ノ神」という一面、もしくは別呼称があるが、これは字のごとく「塞ぐ」神であろう。
つまりこれは「中と外」を厳密に分ける存在であるが、わが高知県には「内外」の概念が希薄であり、伝説の中でも怪異が「訪う」というものはなく、いつでも共存のような形の中であるタイミングで怪異やわれらが出会ってしまうという概念のほうが強い。

高知にはあまり「道祖神」が存在しないことをいぶかって少しばかり調査してみただけなのだが、高知は特に「ドウロク神、ドウラク神」と称される存在が多いように文献には記載されていた。

これは我々は怪異や自然神、悪霊などとも「ともに暮らしている」という概念が支配しているか、現実に共存しているという意味でもあろう。

空海が八十八か所を定めた理由もある意味、この四国全域が怪異も神も人間も共存している「霊的」な磁場を持つ場所であったからだと、そんな風にも感じたことだった。

さらにはいざなぎ流の話も絡めればもっと何らかの理解が深まるのかもしれないが、今回は備忘録もかねて、こんな話を書いてみた。

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