「裕子ちゃん、後継ぎしてね」と言われ続けて
「裕子ちゃん、何か書いて居るかい?」と綾子さんに何度言われた事だろう。「かい」と言うのは北海道弁の懐かしい響きで、今も綾子さんの声が聞こえてくるような気がする。
常に紙と鉛筆を置いて気が付いたことをメモ
何故か綾子さんには「後継ぎしてね」と繰り返し言われたのだが、書いて居るかどうかと問われることも多かった。結婚して二年後に娘が生まれ、四年後、六年後と次々三人の子供が生まれて、育児に追われる日々の中で、私は書く時間が全く無くなって居た。世間では、エコノミックアニマルと言う言葉が繰り返しニュースになっていた時代で、夫は本当に忙しく、休日の無い様な生活だったので、故郷を離れての育児は、孤軍奮闘の日々だった。
ある日のこと、やはり綾子さんに「裕子ちゃん書いて居るかい?」と言われた。家事、育児に追われて書けて居ないと答える私に「裕子ちゃん、玄関にでも台所にでも、トイレにでも、常に紙と鉛筆を置いて気が付いたことをメモしなさい。気が付いたら直ぐメモをして。そうしないと、ものは書けないよ」と綾子さんは言った。
『確かに』と思った。綾子さんが一千万円懸賞小説に応募した『氷点』を書いたのは、雑貨屋をやって居た時で、閉店後の午後十時過ぎから一年がかりで書き上げたのだった。「今日はお客さんが多くて疲れた」とか「今日はお客さんの悩みの相談を受けて時間が無かった」等々、時間が足りない理由は、幾らでも有ったはず。綾子さんは、困難の中でも、どうしたら可能になるか、どんな工夫が出来るかを考えて道を拓いて来た人だった。ギプスベットに伏せる日々の中でも工夫して収入を得て、お母さんに当時未だ高価だった洗濯機等を買ってあげたりしていた。(この事は、何時か詳細に書きたいと思う)
最優秀賞になれなかったからこそ
もう40年以上経ったのでメモ用紙を置いたかどうか、記憶に無いが、書く努力はした。先ずは、購読していた新聞の読者欄に投稿した。次に、当時、主婦向けの月刊誌の主流だった『主婦の友』のモニターに応募して採用され、毎月送られてくる『主婦の友』を読んでレポートを書いた。育児に追われる日々の中で、幾らかでも社会と関われている喜びが有った。締め切りがある事も、何となく張りが有って嬉しかった。
「書いて居るかい?」と言われるから、という理由だけでなく、本当は、書くことがすきだったのだろうと思う。思い返せば、私は中学生の時、文芸部に入っていたのだ。原稿用紙20枚を渡されて、一週間で何でもよいから書いて来る様にと言うのが、課題だった。担当の先生は詩人だった。(後に、綾子さんと結核療養所で一緒だったと聞いた)
綾子さんが作家デビューした42歳という年齢は、私の中で節目の年だった。綾子さんの様には書けないと、分かって居たけれど、心の中で気がかりだった。42歳を迎えた日「どうしよう、、、綾子おばちゃんに後継ぎしてって言われたのに、何も出来て居ない、、。」と焦って居たのを長女は鮮明に覚えていると言う。それなりに努力はしていたが、確かに私は焦って居た。
何か書きたい、書かなければとの思いは、次第に大きくなって、新聞でも雑誌でも兎に角、募集と書いてあるものをチェックした。綾子さんの様に、小説は書けなくても、とにかく書きたかった。小学館の家庭教育誌『ベルママン』には、我が家の家庭教育についての手記を二回応募して二回とも入賞し本に掲載されたが、最優秀賞では無かった。他の雑誌などの賞にも応募して入選した事が幾度かあるが,一度も最優秀賞は無かった。最優秀賞になれなかったからこそ、今度こそはと、チャレンジを続けた。
ある時『百万人の福音』と言う月刊誌に「ペンライト賞」というエッセイ募集の記事を見つけた。早速、私にとっての『道ありき』の様な手記を書いて送ったが佳作であった。次の年は、色々取材してドキュメンタリーを書いて応募した。感動した出来事を、精一杯取材して書き上げたので、原稿を投函する時、これが入選したら多くの人にこの出来事を知って頂けると思うと、ドキドキしていたことが忘れられない。今でも、感動的だと思って居るが、やはり佳作だった。次の年は、娘に遺言のつもりで、心を込めて書いたが、そちらは佳作にもならなかった。
その頃、両親が入院したり、娘達が大学に入った為、パートに出たり、そんななか両親が相次いで亡くなったりして、書く生活から離れてしまって居た。
最後の投稿から10年近い時が流れて、綾子さんは天に召された。
入選出来なくても、審査員の一人にでもメッセージが届いてくれれば
色々な雑誌や新聞等で、綾子さんの追悼の特集が載った。その時、かの『百万人の福音』から追悼文のご依頼があった。秘書を辞めて27年近くになっていた為、私の存在は、あまり知られて居ないはずだ、どうやって私を見つけてくださったのだろうと不思議だった。私は喜んで追悼文を寄稿した。後に、編集担当の方に「どうしてあの時、原稿のご依頼を下さったのですか?」と伺うと「Kが、宮嶋さんは、書ける方だから、お願いしたら良いと思うと、勧めてくれたのです。」と言われた。Kさんは私が投稿していた頃『百万人の福音』で編集者だった方で、全国から届く応募原稿を一番初めに読んで居られたのだった。追悼文を寄稿したときにはボリビアに引っ越されていたが、このKさんが推薦してくださったのだという。
綾子さんは『氷点』を書きながら「入選出来なくても、審査員の一人にでもメッセージが届いてくれれば」と願って書いた、と言って居た。私はもう少し願いが、大きくて「これが本に掲載されれば多くの人に読んでいただける」と思い、三年連続で応募し続けたのだった。私が応募していた頃は、佳作は本に掲載されなかったが、数年後に、佳作も掲載されるようになった。もし、初めの応募作品が掲載されて居たら、私はそれで満足してしまって一度の応募で止めていたかもしれない。
駄目だったと思われることが、もっと良いことになるとは、思ってもみなかった。本には掲載されなかったが、それをKさんが読んでいて下さったのだ。そして、追悼文をと、推薦して下さったのだった。
追悼文の編集担当者は、綾子さんのファンだった。校正刷りの連絡等をした時に私は、何やかやと、綾子さんの思い出を話した。この会話がきっかけで、後に私は『百万人の福音』に連載する事になり、連載は好評で三年三か月も続き『三浦家の居間で』(いのちのことば社)という本になった。その本から更に繋がって『神さまに用いられた人 三浦綾子』(教文館)という本も出版した。一度も最優秀賞は貰えなかったけれど、繰り返し「書いて居るかい?」と促してくれた綾子さんに、少しは答えられただろうか?
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