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カプセルの記憶

※本記事は、宣伝会議 第44期 編集・ライター養成講座の卒業制作として作成しました。(加筆修正しています)

中銀カプセルタワービル


中央区銀座8丁目の高速道路沿いに、ブロックを積み重ねたようなユニークな外観の建物があったのをご存知だろうか。ブロックひとつひとつが住居であり、ふたつのコアとなる茶色い塔に、木の枝のようにブロックが取り付けられている。
建築家・黒川紀章氏の代表作・中銀(なかぎん)カプセルタワービルである。

近代的なビルの中でひときわ異彩を放つ中銀カプセルタワービル。


メタボリズム建築の代表である中銀カプセルタワービルは、今年で竣工 50 周年を迎えた。独特の構造と宇宙船内のようなカプセル部屋は他に類を見ない建築で、熱烈なファンも多い。
この建築のもとになっているメタボリズム思想は、1960 年代に日本の若手建築家・都市計画家グループにより展開された。社会の変化にあわせてパーツが取り替えられ、建築がまるで新陳代謝(メタボリズム)を起こすように変化していくという考えである。

紀章氏は生命体としての建築を理想としていた。
カプセルを細胞と見立て、老朽化したら新しいものと交換して住み続けられる。生物が新陳代謝をはかるように再生するマンションとなるはずであった。

しかし現実にはそれは叶わず、中銀カプセルタワービルは解体された。



カプセルハウス K のカプセル部屋で、中銀タワーを想う


「せめて透明のパネルだったら、みんなにタワーの最後の瞬間まで見えたのにね。」

カプセルタワーを覆う壁は日に日に高さを増していき、白いパネルの向こう側に隠れてしまった。

解体工事中の中銀カプセルタワーの写真を眺めながら、黒川紀章氏の御子息、黒川未来夫氏との話は始まった。


今回未来夫氏に話を聞くため、長野の山奥に佇むカプセルハウス K を訪れた。
紀章氏の別荘であったカプセルハウス K もまた、メタボリズム建築の一例であり、中銀カプセルタワー竣工の翌年に建てられている。

山奥に潜むカプセルハウス K。この日は雨、木々が濡れ、日が暮れるにつれ緑の匂いが深まっていった。


建物の上から、突き出たカプセルの外装を見下ろせる。


紀章氏はメタボリズム建築の可能性を追求しこの別荘を作ったと未来夫氏は言う。
「カプセルハウス K は、黒川がカプセルに住みたくて自分用に作ったわけではないのです。メタボリズム思想の流れで、こんな使い方もできるよっていう一種の証明みたいなものでした。中銀カプセルタワーだけじゃなくて、住宅としてこういう風にもできるということを残したかった。」

周囲を自然と植物に囲まれたこの長野の別荘は、タワーと同じカプセルを4つ備えている。
カプセルタワーと同じユニットの2つの部屋と、キッチンと茶室だ。これらはコアユニットとなるリビングに取り付けられた構造になっており、リビングと下階の寝室は、螺旋階段でつながっている。
「中銀タワーとカプセルの造りは一緒です。ネジでとめている構造だから、カプセルごとパカッと外すことは可能なんです。」

カプセル部屋内の黒川未来夫氏。埋め込み式のカラーテレビ、テープデッキ、ライトに、折り畳みデスクもあり、コンパクトで機能的な部屋を目指していたことがよくわかる。
風呂、トイレ、洗面台のユニットバスが付いている。


未来夫氏は、カプセル空間を多くの人に体験してもらいたいと願い、昨年から別荘の修繕を始めた。老朽化に伴う問題を解決し、民泊として希望者が泊まれるように整えた。
「カプセルハウス K に泊まる人には、自分の家のように過ごして欲しい。なんでこういうことを始めたかっていうと、私だけが個人的にここで過ごしていても仕方ないなあって思ったんです。カプセルを気に入ってくれている人に、この空間をゆっくり味わってもらいたい。できれば、次の予定とか考えずに1週間くらい居てどっぷり浸かってほしいな。本当に住んでいるように。」

周囲を自然に囲まれ森閑としているので、何にも邪魔されずメタボリズム建築に没頭することができる。ファンにとっては最上の経験である。

リビングに立つと、階段で少し上がった半2階の通路沿いに、それぞれのカプセルの入り口があるのが目に入る。リビングの天井が高く広がりのある空間に感じられる。


茶室を備えた和室。地面に近いため窓からは周辺の木々だけでなく斜面の土壌も見え、他のカプセルとは趣が異なる


カプセルハウス K で過ごしながら、解体されゆく中銀カプセルタワーを心に描く。
中銀タワーのカプセルの並び方は、少し不規則だ。あれは螺旋構造を意識した結果だろうか。カプセルハウス K の下階の寝室につながる螺旋階段を下りながら、ふとそう感じた。
「中銀タワーのカプセルを取り付ける向きは全部一緒じゃないんですよ。一部は窓から他の部屋が見えないように、くちばしのようなフードをつけて視野を遮る工夫をしているんです。
コアになっている部分と階段をとつないで、生命体のように、螺旋状に上へ伸びるイメージがあったんじゃないかな。」
そう語りながら見せてくれたのは年季の入った分厚い本。黒川紀章氏の、当時の手書きの建築構想を見ることができる。細胞や植物の中に自然の原理としてあまねく存在する「螺旋」が描かれている。アートブックのようだ。
紀章氏が生命体を意識していたことがはっきりと感じられた。

寝室と上階をつなぐ螺旋階段
寝室では大きな丸窓から外の景色を望み、宙に浮いている感覚を味わえる。
窓の外を見上げると、突き出たカプセルの外壁が見える

中銀タワーのカプセルは解体後、美術館などに寄贈される予定だ。海外からのオファーもあるそうだ。
紀章氏が著書の中に記した「カプセル宣言」では、老朽化したカプセルは新品と交換するだけでなく、外して修理し中古市場に流通させると述べていた。この点では、紀章氏の思惑通りの展開である。新陳代謝された古い細胞(カプセル)は捨てられるが、むしろその古い細胞が保存され再利用されていくというのは興味深い。

中銀カプセルタワーの細胞は今後もどこかで人々が目にし、その空間を感じ思い出してもらうことができるだろう。

紀章氏の中で、住人はどういう存在だったのだろう。カプセルが細胞なら、住人は?

次は細胞の中で人生を過ごした人の話を聞きに行ってみよう。



中銀カプセル内にデザイン事務所!?  d’ores の独立


宮本匠氏はデザイン事務所 d’ores のオーナーである。
オリジナルの空間表現を手がけている若手のインテリアコーディネーター・空間デザイナーである。独立して最初の事務所をカプセルタワーの一室で始めた。
「カプセルタワーの中で、一番家具にお金をかけて、一番かっこいい部屋っていうのをコンセプトに、あの部屋を作っていました。」
そういう宮本氏の言葉通り、カプセルタワービル B806 号室に設けられた事務所は斬新で、内部はヴィンテージ、アンティーク、デザイナー家具で飾られている。壁には漆喰に似た左官材を使用し、色を壁により変えている。大きな丸窓とは別の壁に四角い小窓がいくつか開けられており、外観からも一目でわかる。紀章氏の設計ではなく、改装して追加された小窓だそうだ。
本人は 180cmを超える長身で、スタイリッシュなワードローブに身を包んでいる。彼がその場にいることでこのカプセルの空間が完成される光景が目に浮かぶ。

もとのカプセルタワービルの部屋からは到底想像できない空間が広がっている。


自然光が入ると小窓の存在感がひときわ引き立つ


解体作業開始直前の中銀カプセルタワー
複数の小窓のあるカプセルが宮本氏の事務所である


「これご覧になったことありますか。」
そう言って見せてくれたのは当時のカプセルタワーの販売資料であった。復刻版であるが、その当時そのままに作ってある。当時の値段で一部屋700万円程度、当時のいわゆるエリートサラリーマン用に売り出され、平日遅くまで働いてカプセルに寝に帰るというコンセプトだった。

カプセルタワー販売資料の復刻版。


カプセルタワーの一室に事務所を構える、しかもそれが独立のタイミングであれば、そこには並ならぬカプセルタワーへのこだわりがあったのだろうと想像していたが、始まりはそうでもなかったようだ。
「カプセルタワーで始めたのは全くの偶然です。最初は資金がなかったので、自宅でやるか、事務所をやっている友人から間借りすることも考えました。そんな時にちょうどクライアントさんから、カプセルタワーの一室を貸すからそこでやらないかという話をいただいて。そのタイミングで独立してカプセルタワー B 806 に事務所を構えました。」

カプセルに入る前と後の印象の違いはどうだったのだろう。
「外観と中に入った時の印象に差はなかったですね。夏は暑かったです。皮の財布を暑い中に置いておくと、もわっとするような感じ。
虫も出ます。ぼくは虫が苦手なので、しょっちゅうバルサンを炊いていました。
あと、僕の部屋はユニットバスが使えなくなっていて。共同トイレが1階に一個だけあったけどよく壊れるので、向かいの地下駐車場のトイレまで行っていました。
だから不便ではありましたが、古いというのを気にしないのでストレスはなかったですね。古いのも独特で面白い、と思っていました。」

宮本氏はもともとインテリアやデザインなどの学校教育は受けておらず、この世界には23歳で飛び込んだという。以前は警視庁に勤めて警察官をしていた。1年程働いたあと職を辞し、インテリアとデザインを扱う会社に就職した。
転機はその時期だった。アメリカのバーニーズニューヨーク本店を訪れた際、洋服のディスプレイの方法に衝撃を受ける。そこでは上下の空間を贅沢に使って洋服を高い位置に吊らし、アート作品のように飾っていたのだ。
当時の日本の一般的なアパレル店では見られないそこでの経験が、空間をデザインする仕事を志すきっかけだった。

アンティークやヴィンテージに対する興味は、会社がそういった家具を多く扱っていたことも影響していたようだ。
「僕は、古い物の方が、時間と技術をこめられていると思っています。
昔は一個一個ハンドメイドで作っていたので、作りとか、素材でいったら昔の物の方が良いですよね。そういう物にたくさん触れていました。
例えば金属だったら磨けばきれいになる。古い良さが出るんです。」
働き初めの時期からアンティークやヴィンテージなどに囲まれていたことが、カプセルタワーの事務所の雰囲気や自身の独特の存在感を作り出しているのだろう。

1600年台後半に作製されたマネキンは、縁があって譲り受けたものだという。現在は移転後の渋谷の事務所にある。


宮本氏が独立した直後、コロナウイルスによるパンデミックが起こり、世界は震撼した。事務所を開始した後の生活にネガティブな影響を与えたことは、想像に難くない。
「独立すると給料をもらえなくなるから、毎月の収入の保証がなくて、不安は大きかったです。しかも僕らの仕事は、もとから形があるものではないので、クライアントから依頼されて初めて仕事が始まる。だから、まとまったお金が入るのは2,3ヶ月先になります。
コロナの影響はかなりありました。実際キャンセルになった案件はいくつもあった。」
飲食店や小規模の事務所などの多くが泣く泣く閉店するのを見た時期でもあった。

「初めてコロナの緊急事態制限が出た時は、東京タワーも暗くなってしん、としていて。もう外に出るのもだめなのかなって感じがありました。
銀座や新橋もしーんとしていて、人が全然いないんです。僕はいつも東銀座駅からカプセルまで歩いていたのですが、歌舞伎座の辺りも誰もいない。」
ゴーストタウンのような街をひとり歩き、コンビニに寄って、カプセルタワーへ行く生活だったそうだ。
「カプセルは一個一個が独立しているから、隣と壁一枚という普通のマンションと違って、隣の音が全く聞こえないのです。本当に人が住んでいるのかわからないくらい、上下左右の音が聴こえない。
僕の部屋の丸窓側が、新橋方面の見晴らしのいい方向だったんですね。遠くまでよく見えます。
その頃カプセルの窓から首都高を見下ろすと、全く車も走ってないし人も出歩いてない。
電通のビルも電気が消えている。
ドアと窓を閉じると無音になって、東京はこのまま終わるんじゃないかと思いました。
都心に浮かぶ宇宙船みたいな感じで、俺一人しかいないんじゃないかという感覚になりましたね。
AKIRAの世界。ああいう世界に思えました。
AKIRAとかブレードランナーとか、近いですね、スチームパンクとか、インダストリアルとかね。」
まるで映画の SF のシーンだ。SF 映画が中銀カプセルタワーの部屋にインスパイアされたという話をよく聞くが、まさにその通りの体験だったのだ。



メタボリズム建築の役割を、カプセルタワーは果たせたか。


生物が新陳代謝するように再生するマンションが理想とされていたわけだが、紀章氏の想定するメタボリズム建築の役割を、カプセルタワーは果たせただろうか。
カプセルの事務所で2年4ヶ月という時間を過ごした宮本氏はどう感じているのか。
「建物としてのメタボリズムは一度も実現されなかったと思うんですけど、入った人が出て行くというのは、ある意味メタボリズムかなって思います。
僕も正直、業務で使う広さとしてカプセルタワーは手狭で限界がきていて、やっぱりもう一部屋ないと、きついなあって思いました。
そんな時、移転後の事務所をシェアさせてもらっている社長さんにもらったのが、『もう風向きが、そこじゃないところにきている。次に行くことが自分にとって成長につながるから、もうそこから出る時期だ』という言葉でした。
その時が、自分の中での新陳代謝の完結だったのではないかなと思います。」

それは、宮本さんの人生の新陳代謝を表しているように思えた。


事務所内の宮本氏。自身の写真を取られるのは苦手だそうだ。


宮本氏は以前メディアプラットフォーム note 内の自身の記事で、中銀カプセルタワーとセザンヌとの共通性を綴っている。
セザンヌは、「自然を円筒形と球体と円錐形で捉えなさい」という言葉を残している。中銀カプセルタワービルは、そのセザンヌの言葉を建築に置き換えて、メタボリズムという建築様式の提唱に至ったのではないか、という考えである。
「それが僕の中ではメタボリズムという構想にすごくしっくりくるなって思っています。人間も成長していくのが自然で、結局建築って人間が使うものじゃないですか。
だから建物自体のメタボリズムというよりも、人類の意思、思想として、メタボリズムは常に躍動しているのだと、今になってよく思います。」


宮本氏にとって「カプセル」とはなんだろう。
「悲しい意味ではなくて、孤独とむきあえた場所でしょうね。その当時、自分は何をしたくて独立したのか、何をどうしたらうまくいったのか、これからどうしたいのかって、考えることが必要でした。
仕事をしていれば、全部が全部上手くいくことってない。上手くいかないことの原因を考えて次に修正点を生かすということをやらなきゃいけなくて。ひとりで事務所にいると、見ないようにしていても、ネガティブなことにも向き合わざるを得ない。とても静かだったので、そういう時間を強制的に作れたのです。
結局何かに対する意識を変えるのは自分自身でしかない。そういうことに気づかせてくれた場所でした。

当時も今もカプセルタワーを通じて取材の依頼をいただいたり、新しく人と出会うことがあります。
人との出会いって、点と点でつながって線になって、つながっている人たちがさらにそこから外に向かって行くイメージなんです。毛細血管みたいに密に。カプセルは、その拠点だったのかなって思います。
あと、カプセルタワーを見たい、行きたい、という人が多かったので、名刺を渡した時に、『カプセルタワーで事務所をやっている』 ということで興味を持たれて、仲良くなれたりもしましたね。
カプセルを通していろいろ勉強になったから、学び舎みたいなものだったのかな。」

事務所内で取材をうける宮本氏。カプセルを通じて人との出会いが数多くあった。


カプセルでの新陳代謝を完結した宮本氏、今後はどういう目標があるのだろう。
「クライアントに、絶対この人に携わっていて欲しいと思われるレベルにならないと。まずそこにノミネートされるところまではならないとなって思います。
事務所の名前の d’ores はラテン語で、妻が付けてくれた名前です。百年以上前のフランス小説 『ロクスソルス』に登場するカントレル博士という背の高い愛想のない博士が、趣味で骨董収集をしています。額縁の裏に、d’ores って彫ってあるシーンがあって、これは直訳すると『いまこそ』『いまなら』という意味です。いまより早い未来ってないので、『いま』、成長していこうって願いを込めています。僕のアートと、デザインを両立させて、常にふたつを掛け合わせた空間を作りたい。そういった自分の土台を構築していきたいです。」

最後にカプセルに対する想いを聞いた。今後どういうふうに使われて欲しいか、もう一度住めるとしたらやはり所有したいだろうか。
「ひとカプセル4トンあるらしいので、引き取り手としては美術館などが現実的だと思います。
僕としては、現物を引き継げないにしても、そこにいた記憶っていうのは後世に引き継げるでしょう。そこを大事にしていきたいなって思います。」


メタボリズム建築は、生命体がメタボリズムを起こすように機能を変化させて再生することを理想とする。
中銀カプセルタワービルは、カプセルが交換はされないまま解体され 50 年の生涯を閉じた。しかし、生活した人の中では人生のひと時のメタボリズムが起こっていた。
宮本氏の記憶が後世に紡がれていくことで、カプセルタワーはメタボリズム建築としての役割を果たせているのかもしれない。


黒川紀章氏はこう述べている。
「建築、それは完成のその直後から変化し、動くのである」
そして、
「建築家が変化していく建築の形を予想することはできない」
と。





取材をお受けいただいた黒川未来夫様、宮本匠様に厚く御礼申し上げます。


カプセルハウスKに泊まってみたい方はここで予約できます!

今後はこちら↓ がメインになるそうです(各国の言語に自動翻訳されます)


デザイン事務所 d'ores のインスタグラムと note はこちらです!
是非訪ねてみてください。


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