義母と私の4ヶ月
お義母さんが岩手に帰った。
「では、またね」とドアを背にするお義母さんを前に、泣き始めた娘を抱っこしながら、私も涙が溢れてきてしまった。「楽しませてもらったよ」と言ってくれた。
義母は双子の赤ちゃんのお世話のために、岩手から東京の我が家に4ヶ月間滞在してくれた。群馬にいる私の母は、仕事と透析患者の父の世話があり産後のヘルプをお願いできないため、すでに義父が他界し一人で岩手の広い家で暮らす70歳を過ぎた義母に赤ちゃんのお世話を依頼した。彼女は元看護師でもあるため、来てくれることは私にとって大きな安心材料だった。
この4ヶ月間、毎日毎日、朝から晩まで双子にたっぷり愛情を注いで、一緒に過ごしてくれたことは、もう感謝しかない。
ありがとうという気持ち、毎日一緒に食卓を囲んだ人がいなくなってしまう寂しさ、これからの独り立ち双子育児の不安、いよいよ夫婦水入らずという開放感、共に火の粉をくぐった戦友を見送るような思い。いろんな想いが溢れて涙が止まらなくなってしまった。
6月半ばに双子が誕生。新生児期は、文字通り昼夜なくつきっきりで授乳やオムツ替えが必要で、私も産後で身体がきつかった時期。長かった梅雨。コロナの外出自粛モード。感染者ゼロの郷から来た義母は無用な外出を全くしなかった。普段は毎日フィットネスジム通いをしている彼女が数日間連続で家にこもっているのは心配になるほどだった。
この狭い2LDKの空間で大人3人と赤ちゃん2人が一緒に暮らす日々。平日の日中は夫がリモートワークする部屋で、夜は義母が布団を敷き、休んでいた。
日中はリビングで私と義母は双子の世話をしながらずっと一緒に過ごした。テレビからは「トクダネ」、「ノンストップ」、「バイキング」、「グッディ」、「イット」…。ワイドショーも情報番組も終始コロナのニュース。授乳、搾乳、哺乳瓶の洗浄・除菌、オムツ替え、沐浴(お風呂)、洗濯、掃除、朝昼晩の大人3人分の食事の用意、食器の片付け、ゴミ捨てと次々にタスクに追われてあっという間に1日が終わってしまう。Netflix見たり、本を読んだり、音楽やJ-waveを聞いたりする時間を持てないことに、私は正直物足りなさを感じることもあった。(そんな体力的余裕があれば睡眠優先だし活字を読む集中力なんて産後はまだないけど。)義母は赤ちゃんの抱っこのしすぎか、8月くらいから左肩に痛みが出てしまい、近くの整骨院に通うようになった。後から聞いたがその頃が疲労のピークだったそう。
9月下旬からやっと過ごしやすい季節になり、双子も昼夜の区別がついてきたのか夜間にまとめて寝てくれるようになり、表情が豊かになって笑顔を見せてくれ喃語でおしゃべりが始まった。生後3ヶ月になりベビーカーに乗せられるようにもなり、義母と双子との散歩の習慣が1日のルーティーンに加わった。そうして、やっとあの閉塞感から脱出できたように思う。赤ちゃんがご機嫌だと、万事明るく平和だ。そして、外の空気を吸いに出かけるのって、共に歩くという行為は本当に大切なコミュニケーションだ。
幅が広い双子ベビーカーで、近所のスーパー、コンビニ、公園、児童館を巡り、お散歩コースを義母と一緒に開拓できて、心強かった。地下鉄に乗ってみることも初動が一人では心細かったが、やってみて数駅先の街をぶらつくことができると分かったのは大変うれしいことだった。
双子へのボトル授乳を同時にできたのも義母がいたからこそ。飲みムラが出て、遊び飲みが始まっても、義母は1時間もつきっきりでポコ子にミルクを飲ませてくれた。便秘がちなポコ彦には脚を持って踏ん張りの応援をしてくれた。泣き声が聴こえればすぐに駆けつけてくれた。とても献身的にお世話をしてくれてさすが元看護師と思える場面がたくさんあった。ミルクのこともうんちのことも、毎日起こる些細な変化に一緒に一喜一憂できる相手がいて、私も心強く初期の育児をさせてもらった。
義母が岩手へ帰った日、なにかを勘付いたのか、双子は揃ってこれでもかというくらいたくさんギャン泣きし、ミルクの飲みが進まなかった。ポコ子においては、哺乳ストライキを起こし、お昼からからっきし飲まなかったので心配になった。(翌日からは、二人ともミルクも嫌がらずに飲めるようになって、かなりほっとした。)
その日、夫はオフィス勤務だったので、一人でチーズトーストとインスタントのスープという簡単なランチを、授乳の合間に済ませたが、こういう気楽さも本当に久しぶりでいいものだと、家事は手抜きできるところは積極的に手抜きしようと思ったり。
そして、今この時の思いを忘れないようにしようと思った。
さて、私も「孫のお世話」のバトンをつなげられるだろうか?80歳を超えてしまうよなぁ。しかも二家族分!お義母さんを見習って、ジムで筋トレしないとなぁ。人生100年時代だね。
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