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【ChatGPTの本質】自分の内なる声より先にググってしまう文化の終焉が始まる
IT業界では、ChatGPTくんの登場以来激震が続いていますね。何と言っても分かりやすいのは、盤石に見えた新時代のデファクトスタンダードGoogleが、とっくに恐竜化していて絶滅するだろうと思われていたマイクロソフトに再び覇権を奪われるのか……。
これはヤジウマ的に眺めているだけでとても面白いことですが、真面目な意味でもとても興味深いことが起きていると思います。
Googleは検索ツールであると思っている人は多いと思いますが、それは間違っています。あれは検索ツールではなくて、検索文化を体現したものです。
検索によって、私たちの思考パターンはそれまでとは変わりました。もちろん悪い方向に汚染されたという意味です。
それは、この言葉に端的に現れています。
「Googleに検索表示されなかったら存在しないのも同じ」
冷静に考えてみましょう。そんなわけないですね。スクールカーストを例にすると分かりやすいと思う。イケてるカーストトップ階層でもなく、カウンターカルチャーとしての学級委員でもなく、普段イケてないけど学年で常に10位に入っていて東大が確実だと暗黙にみんなから認められている人でもなく、授業中はおとなしいけど、部活が始まる時間から突然輝き始める人でもなく……。
どんなビッグワードでも、どんなニッチを狙ったスモールワード(ちなみにこれはSEO検索用語です)もひっかからない存在。つまり、検索文化に引っかからない人がいる。
いわゆる目立たない子。同窓会をやっても、誰一人名前を覚えていない人。当時存在感がなかったばかりでなく、誰の記憶にも残らない人。
その人は、存在しなかったも同じなんでしょうか。
Google文化とは「イエス!そうです!存在しないも同じです」こう明るく断言したところにその革新性がありました。
学校で目立たなかった子は存在しないも同じ。
そんなSEOブログ文化に手を染めた時期もあり、そんな自分は本当の自分じゃない、と手を切ったところからみこちゃんのnote生活は始まりました。
その懺悔記事がこれです。
この記事を仲良くしていただいているmerukesoさんが取り上げてくれて、あらためて、自分の原点を思い出しました。
私はこんなことを書いていました。
あなたはいつ魂を誰かに売りましたか
昔は自分の書きたいこと書こう!とブログ書き始めました。自分の趣味を、その醍醐味をみんなに何とか分かって欲しい。こう思って自己表現の場所をブログに求めました。
それが、いつの間にかグーグルで上位検索されるための、いわばGoogle検索エンジン受けする言葉を使い始めました。自分の内なる言葉よりもGoogleのアルゴリズムという外向きの言葉を優先させたのですね。
いつしか、自分の言葉を書くその一瞬前に、Googleのことが頭をよぎる。こんなこと書いても、検索1ページ目には登場しないだろう。登場しないということは読まれないことだ。読まれないということは存在しないのも同じこと。
そう思った瞬間、じぶんの内なる言葉は引っ込んでしまう。外向きの言葉を選ぶ時に自分はネット空間のどこかに存在できるかもしれない、という期待を持てるけど、確実にその時に本当の自分は消えてしまう。
そして、私だけはいつも気がついていたあの子。
イケてるカーストトップ階層っでもなく、カウンターカルチャーとしての学級委員でもなく、普段イケてないけど学年で常に10位に入っていて東大が確実だと暗黙にみんなから認められている人でもなく、授業中はおとなしいけど、部活が始まる時間から突然輝き始める人でもなく……。
それでも、私はなぜだかあの子のことを直感的に理解していて、そして、もしかするとあの子も私のことを、理解しているのかもしれない。私が外向きの言葉の中には決して盛り込むことのできないでいる、本当の私のことを、あの子はきっと理解する、理解してくれるのではないかという淡い思い。
私が外向きの言葉の偽物の手応えを感じるたびに、その子のことが視界から消えていく。そして、いつしかその子がそこに存在していたことさえ忘れてしまう。
自分自身が「検索されなかったら存在しないも同じ」「誰の目にもとまらなければ存在しないも同じ」という考え方に染まっていくことに気が付かない。けれどそれは確実に私を見えないところで蝕んでいく。
なぜならその時、私はその目立たない子を失ったのではなく、むしろ本当の私自身を失ったからだ。
noteはグーグルの検索文化とは一線を画していたように見えた。そして、私はそこで本来の自分を取り戻したと思う。
目立たなくても自分の言葉を大切にするnoteの仲間にも恵まれた。私は危ないところで、本来自分がいた場所に戻ってこれたのだった。
私は学校ではこんな私だった。
自分の言葉を持つことの大切さはあの頃分かっていたはずなのに、Google文化に染まった時期もあった。
さて振り返って……今のnoteはどうだろう。
「スキがいっぱいつかないのは存在しないのも同じ」
「〇〇さんにコメントもらえないと孤立している感じがする」
「〇〇先生に嫌われると存在しないも同じ」
「この炎上に一言口を挟んでおかないと存在しないも同じ」
なんだかnoteにも、そんな文化がちらほら散見されるようになってきた。記事を書こうとするその瞬間に、自分の内なる声に優先する他のnoterの声が、あなたにも聞こえないだろうか。
Googleの影響力は巨大でした。なぜならあれは検索ツールではなく、人間の一番弱いところにすっと忍び込む、口当たりの良い、明るく元気なスクールカースト文化、スクールカースト思考様式だったから。その文化はいつしかnoteにも及び始めていました。
そんなところに、生成AIが突如誕生した。
これはやがて検索カースト文化を駆逐する新しい文化となるだろう。
ChatGPTを触ったことがある人は分かるはず。
Googleは「人の目」を気にする文化だ。まず、人からどう見えるのか、人の印象はどうなのか、これを調べてから何を表現するかを考えるという順番だ。当然、その思考様式の帰結は「検索されなかったら存在しないも同じ」「誰の目にもとまらなければ存在しないも同じ」という考え方に染まっていくことになる。
ところが、ChatGPTは違う。
人はどこにもいない。
自分からの問いかけがすべてです。
つまり、世界に向かって問いかけたい自分の言葉を持っていない人は、ChatGPTとどう関わっていいのかまったくその手がかりすらつかめない。
誰の言葉も参照せずに、自分だけの言葉をまず初発に想起しなければならない。ある人にとってはこれは頭真っ白の真空地帯だろう。
でも、いったん吸いなれた検索文化の、人が吸った後の二酸化炭素まみれのその酸素を吸うのをやめて、息を止めてみる。
もう、息ができなくなって死ぬかもしれない。
朦朧とする意識の中で、そこには私が忘れた、クラスのあの子が思い浮かぶのではないだろうか。
それでも私はなぜだかあの子のことを直感的に理解していて、そして、もしかするとあの子も私のことを、理解しているのかもしれない。私が外向きの言葉の中には決して盛り込むことのできないでいる、本当の私のことを、あの子はきっと理解する、理解してくれるのではないかという淡い思い。
空疎な外向きの言葉に逃げた時、私はあの子に対する言葉を失った。
ChatGPTと向き合って、私はそこに何を書くのだろう。
Googleのように「世間ではこういうことがよく話題にされています」というトッピクスを順番に上から並べてはくれない。
本当に自分が問いかけたいことは自分の中にしかない。
その言葉を持たないと今後AI時代は生きていけないだろう。
いったん、窒息するかもしれない。
でも、息を止めて意識が朦朧としてきたその刹那。クラスのあの子に幻覚の中で会えた時、思わず吸った空気は何にも汚染されていない。それは赤ちゃんとして自分がこの世に生まれてきたときに初めて吸った、汚れのないあの空気だ。
それをひとまず胸の奥まで吸いきったら……。
きっと、あの子に笑って自分の言葉で声をかけられそうな気がする。
それは、まるで自分の声ではないように一瞬聞こえるはずだ。
でも、すぐにそれは、懐かしい自分の声だったことに気がつくはず。
「私はここにいる。だれにも気がつかれなくても」
そんな言葉をしっかり持っているあの子の声が
いま、やっと聞こえる。