ピアスを開けるという行為について
私は中学校2~3年くらいから、ピアスが開けたくなって、まわりの同じ気持ちを持った友人たちと、耳たぶの後ろに消しゴムを当てて、氷でよく冷やしてから安全ピンでブスッと開けた。
…今思えば本当に恐ろしい行為である。野蛮。阿呆の所業。
しかし、昭和・平成の時代を駆け抜けたティーンの皆様には、たぶん同じような経験がある方が一定数いらっしゃるかと思う。
今の時代は不良でなく普通の子どもが親公認で、小学生でも病院でピアスを開けていても全然おかしくない時代だけど、私たちの子どもの頃は、親は親らしく威厳に満ち溢れ(るように演じなければいけなかった。実際はどうであれ)、真面目で、世間に顔向けできないことは決してしてはならないと教えられていたような古き良き時代だったから、ピアスを開けたいと思ったら、大人になってから病院で開けるか、市販のピアッサーを購入して開けるか、お金がない場合は自分たちでどうにか開けるしかなかったのだ。
しかし、時はバブル後の日本が一番浮足立っていた時代。
国内では小室ファミリー、洋楽ではダンスミュージック、レゲエにヒップホップ・テクノサウンド・オルタナティブにと、音楽は様々なジャンルが咲き乱れ、メディアはそれに付随した個性的で多種多様なイケてるファッションのオネエチャン・オニイチャン達を映し出し、漫画は桜沢エリカや岡崎京子・内田春菊など、女の子でも過激でニューウェーブで少しエロスとタナトスな、お洒落とエロと死が隣り合わせのような作品で溢れかえり、俗にいう「サブカルクソ女」(失礼)と揶揄されるような流行に敏感な女子達が私たちは最先端とヴィレッジヴァンカードに通ってはコアな漫画や小説を読み漁っていた時代。
ファッションアイコンとし紹介されるのは、最先端のファッションで、ピアスやお洒落タトゥーを施した個性的なモデルやタレント・歌手たち。そんな人々がキラキラ輝いていた時代。
時代と反して大阪の一地方都市に住んでいた私の両親は真面目で、母などは昔の古き良き母親を体現したような、自営で設計事務所をしていた父の帰りが遅くとも、1人ワンオペ育児で父の事務所の手伝いを終えて帰宅してから私たち女3姉妹の食事の用意をし、お風呂に入れ、明日の準備をして、次の日の朝には3人分の美味しいお弁当を作ってくれているというような毎日を送り、ちゃんと育て上げてくれたような出来た人だったから(父は時代ゆえ家庭の事は一切しない人だったが、良い人だった。)、そんな行為は不良の所業でしかなく、理解不能だったと思う。
しかし、私たちの住む地域にも、古き良き時代と、個性と若者のパワーが爆発している時代との狭間のひずみを生みだしており、私の住んでいる地元の公立中学校は荒れていた。
姉2人は公立中学校に進むも、そこで荒れている現状を目の当たりにした両親は、末っ子で一番フラフラしているように見えた私の将来を危惧し、あろうことか中学校受験をさせる事にした。
なんたる暴挙!横暴!友達と離れるのが嫌だった私は激しく抵抗したが抵抗むなしく、私立中学校を受験する事に。
第一志望の大阪市内の中学校には合格ならず、第二志望の隣の県のカトリック系の私立女子中学校に受かっていたため、そちらに進学することに。
はるばる一時間以上かけて通いだしたその学校は、幸いなことに同じ小学校からの友人が1名いたので朝は一緒に通う事となり、また、途中で友達になった同じ電車の1つ先の快速の止まる場所から乗ってくる友人たちは、さすが私立受験させるご家庭のご息女たちで、みんな温和でよい子たちばかり。
いじめの横行していた地元とは違って、平和で穏やかな中学校生活がスタートした。
しかし、なにせカトリック系の女子高である。
清く正しく美しく、スカート丈はひざ下10cm以上。くるぶしが見えるかという位の長い丈。
ソックスは三つ折り、紙を染めるなんてとんでもなく、肩までで切りそろえるか三つ編み、1つにまとめるなどの清潔な髪形を。
眉をそる、化粧などももちろん禁止。
昭和から平成に移っていた時代。あきらかにダサい。ダサすぎる。
大阪の田舎出身の私ですが、それでもそれが耐え難かった。
一番上の姉は、美人だったので地元の中学校でもイケてるグループに入っており、化粧、染髪、スカート丈はひざ上10cm、私が中学校入学の時はすでに高校生で、クラブに通ったり、それはそれは華やかな高校生だった。
真ん中の姉は頭が良く、そこまで派手にはしなかったが、やはり公立中学校の自由さで制服の丈は短くお洒落にしていた。
地元の中学校に通いだした同級生たちは、早い子は姉たちと同じように、少しスカートを短くして、髪の毛も自由にしていたり、傍から見ていたらすごく楽しそうだった。
母は厳格できっちりした性格だから、そんな事は許せなかったと思うけど、姉たちにはそんなに強く言えず、一番言うことを聞いていて、阿呆で隙だらけだった私に厳しく色々と小言を言ってきた。
そして、女姉妹あるあるで、思春期を迎え、何かしらのフラストレーションを抱えた姉たちから虐げられ、からかいとストレス発散の対象とされてきた非力な私は、だんだんとフラストレーションが溜まっていた。
ああ、どこかに逃げ出したい… いつの間にかそんなことを考える毎日になった。
そんなひずみに耐えかねて、中学生でたぶん私は反抗期を迎えた。
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