ここ数年泣いたことがない話 -Nakamuraemiさんの歌詞に乗せて-
忙しさにかまけて、noteが読む専門になっていました。
今も実際、ほかにやる事がいっぱいあるのだけれど、noteを始めた最初の目的通り、息をするように自然に、気晴らしに書けそうな欲求が唐突に湧き上がってきたので、久しぶりに書かせて頂きます。
私は、ここ数年泣いたことがない。
いや、映画なんかで泣いていたわ。よく考えると。
実際このnoteにもその時の事を書いているし。
でも、私が言いたいのは、物語を見て泣くことはままあるのだけれど、実生活で悲しくて、とか、くやしくて、とかでここ数年泣いたことがないなぁとしみじみ思ったので、その想いを衝動的に文章に残しておこうかと思っております。
人には、2パターンあって、悲しい事やうれしい事、びっくりした事で反射的に人前でもぽろぽろと涙がこぼれてしまう人と(それで悩んでいる人もいらっしゃると思う)、絶対人前では泣けないタイプの人があって、私はたぶん後者のケが強い方なんだろうと思う。
まったく泣けない事もないのだけれど、例えば高校生の時、友人がすごく感動するシチュエーションで、仲間の前で泣いてしまった時、私も同じくらい感動していたのだけれど、つられて泣く・なんて芸当が出来ずに、もう1人の友人からひとでなしのように言われた事があったなぁ。とか、泣けるタイプの後輩に、上司の庇護欲が掻き立てられて、いい所を全部持っていかれた事があったなぁ。とか、思い出せば色々ある。
一時期は、大人になって人前で泣く人は、なんで大人なのに我慢できず泣くのかよくわからないと思っていたのですが、最近、泣いてしまうのは脳みその反射的な反応で、その部分のセンサーが敏感な人が「ここでは泣いちゃだめだ!」という時でも敏感に反応して、泣いてしまう人もいるのではないかと理解できた。
もちろん、そうでなくて、ただ幼くて客観的な判断が出来ず泣いてしまっていたり、たちが悪い人の場合はもっと狡猾でずるい部分で泣いてうやむやにしてしまう人もいるとは思うのだけれど、Nakamuraemiさんの「雨のように泣いてやれ」という歌の歌詞で
という、おそらく30代位の女性のリアルな生活を切り取った秀逸な歌詞があるのだけれど、この歌詞を読んで、歯を食いしばって頑張って頑張って、その先に出てしまった涙も、女というだけで「武器」扱いされてしまう悲しい現実があるのだな。と思った。
そういう我慢しても泣いてしまった人なら、我慢せずに「雨のように泣いてやれ」と歌ってくれている優しい歌詞だな、と。
思えば、私は空気を読むタイプの子どもだった。
大人になっても、結構そのケは強かった。
だから、なんとなく、泣くと女というだけで「武器」扱いされてしまう空気感を感じ取って、その部分を知らぬ間に封印してしまっているのではないかと思った。
私は割にそういう意思の強い方なので、すごく固い封印になっているようだ。
今更、泣く人にはなろうとも思いませんが、世の中の女性、いや、女性に限らず男性も人前で泣くと「男のくせに」といわれたりしますよね。
でも、私は息子を産んで思った。
息子も割に人前で泣いたりしないタイプだった。だからすねるという事で不快感をよく出していた。けど、まだ小学校3年生くらいの時、ふとしたことで言い合って、その後で、「お母さん、ごめん。実は学校でこんなことがあって、お母さんにやつあたりしてしまったねん。ごめんな。」みたいな事を言って、号泣を始めた事があった。
その時、「男の子でしょ。恥ずかしいから泣くな。」とは言えず、いっぱい泣け。と思って頭をなでてあげた。
すると、声をあげてうわんうわん泣いていた。
彼は、そういう心を許した人の前でしか泣かないタイプの性格だ。
そういう人が男女問わず、もし、泣いてしまった時は、泣かせてあげる自分でありたいな。と。
それでないと、泣くことで守られたあの子やあの人やあの時なんかに、実は、すごく悔しい思いをした自分がいて、心の奥底で泣いていた自分みたいな人を量産してしまいそうだから。
私はその悔しさで、なにくそー!ずるい手を使わずにもっと大きい人間になってやる!と思って生きてきたところはあるのだけれど、そして、そんな自分も嫌いではないのだけれど、それを強要すると、苦しい人が出てしまうかもしれないね。
そして、私の生き方は素直ではなかったのかもしれないね。
だから、自分に厳しく、人にやさしく、ではないけど、心の奥底で泣いていたであろうもう1人の私を癒す意味も込めて、これからは泣く人にももっと優しくしようと思う。
ずるさで泣く人の見極めは必要だけどね。本当の悔し泣きの人限定。
〈 写真は、泣ける時に撮った近くの風景です 〉