私は物理を習ったことがない
んだ。
今の教育課程がどうなっているか知らないんだけど、私が高校生の時代は、私が学んだ理科に関する授業は、化学と生物だった。
選択科目にも物理がなかったのは、専門の教師が、その学校にいなかったからだ。
でも、大人になるにつれ、特に病になってから、科学的なことにより興味を持つようになった。何か専門的に学んでいるわけではないけど。
命や肉体や代謝についてより興味を持つようになった。
するとただネットを楽しんだり日常生活をしてたり、脳の機能について実感していたり、まあようするに観察科学と論理科学によって全人口約77億分一の脳が思考実験の延長に思うところができた。
結局、究極の好奇心の向かう先は「世界」なんだ。「世界そのもの」。
そこで思い出したことがある。物理の世界には「世界のすべてを表すことができる数式がある」ということ。
世界はビックバンが起きてから、今も広がっている。
私が最近ひしひし感じるのは、命も鉱物も宇宙そのものも同じ顕著な性質をもっていることだ。
もっと賢い人はちゃんとどういうことか知っていて説明もできるのだろうが、私がこの結論に至ったのは観察と論理だ。たとえば生物は重いものが軽いものを取り込んで、自分の体やエネルギーにする。そうして生きている。星雲ですら、大きな星雲が小さな星雲を引き寄せて取り込んで大きくなる。この性質の行き着く果ては、すべては一つの塊になるわけだ。世界ができた時の痕跡がよりよく残る宇宙でに意識を移して考えると、その状態はつまり、ビックバンが起きる直前を指すのではないだろうか。
それから、物質は温度で容態を変えるじゃない? ビックバンの芯が究極の個体であったとすれば、気体→液体→個体→?
ここになろうとしたけど、それにはなれなかったのかな?だから爆発したのかな。
でも、今も生命や星はどんどん集まっていくよね?質量保存の法則が正しいなら一つ一つはエネルギーを失っていったとしても、それはすべてどこかにはあって、どんどん集まってるんだよね?
この世にある法則は後付けじゃなくて最初からあったものだよね?
そしてそれは元は一つの塊だよね?
確かにこう考えれば、世界は一つの法則に集束するのは筋が通るし、小さな原子も量子も生命も惑星も星雲大きさが違うだけで似通った性質があるよね。
そう考えると、みんなが弾けて広がっても、また一つに集まり切ったら同じことが起きるんじゃないだろうか?
そんな数式が完成したら、それは本当に起こるのか理論的にはわかるんじゃないのか?
そんな仮説も立てられるのです。
世界情勢が震えるたびに、私は感じるのですが、脳は人には過ぎた臓器なのかもしれない。
おそらく時間がかかっても、全てを解明できる(と思われるこんな)臓器が人間に一つずつ搭載しているのに、それにふさわしい存在に人間は程遠く思えるのです。
寿命とか個であること自体が邪魔をしているのかもしれません。それも必然ので、必要なのは気づきなのかもしれませんが。
どうせみんな死ぬ。というより、死はそういう容態でしかなくて、何かの今は避けられない過程なんだとおもうのです。もし、みんな死んだあとの世界が証明されたら生きているときの価値観はひっくり返るどころか吹っ飛ぶかもしれませんね。生きているときの努力は死んだ後の世界にはなんら無意味である可能性高そうですもんね。
死んだはずのボルボックスがまた動き出す動画貼っておきますね。
生命が科学によって解明できる時代がもうすぐきますね。
となりのボルボックスがなぜ生きてると思った?
生命ってなんなんでしょうね?
なんか人間には特別に思えても設計図と材料とエネルギーがあれば勝手に作られて動き出す機構なのかもしれませんよね。そしたら、破壊さえ的確にやれば再生は非常に簡単かもしれませんね。
なんか今日も頭がおかしい感じです。おやすみなさい。