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⑥「ひかりが私にくれたもの」 - 胞状奇胎という流産の先に見つけた幸せ-
第5章:手術当日。あっさり終わった手術と、遠くから聞こえた産声
手術当日の朝。
緊張からか、いつもより早く目が覚めた。
普段休みの土曜日に幼稚園に行かされる子どもたちは、不満げな顔をしていたが、
「今日はお弁当だよ」と伝えると、少しだけ機嫌を直し、元気に登園していった。
彼らの小さな背中を見送った後、私の中に広がる静けさに気づいた。
あれだけ慌ただしかった朝の喧騒が消え去り、自分が一人取り残されたような感覚だった。
夫が出勤時間を遅らせて病院まで送ってくれた。
車内には静寂が漂い、エンジン音だけが響いていた。どちらもほとんど言葉を発さなかった。
たった15分の道のりが、随分長く感じた。
病院に到着し、車を降りる時、夫がぽつりと言った。
「仕事が終わったら、幼稚園に子どもたちを迎えに行くよ。連絡をくれたら、みんなで病院に迎えに行くから。家のことは全部、任せて。」
その言葉は、静かに私の胸に響いた。
「手術のことだけ考えていいんだ……。」
ふと、肩の力が抜けるのを感じた。
不安に押しつぶされそうだった心が少しだけ軽くなり、ようやく「自分のこと」に集中していいのだと思えた。
夫の存在と、短い言葉の中に込められた思いやりが、静かに私の背中を押してくれている。
私は頷きながら「ありがとう」と小さくつぶやき、病院に向けて歩き出した。
病院に着くとすぐに手術着に着替え、コロナ検査を済ませた。下着を脱ぎ、薄い手術着に寒さを覚えながら、ベッドに横たわる。布団を被りながら、ふと思った。
「子どもたちと離れて、こんなふうに一人で過ごす土曜日なんて、今まであっただろうか?」
普段の忙しさとは全く異なる静けさの中で、心にぽっかりと穴が空いたようだった。
予定の時間を過ぎたころ、看護師が現れて「急にお産が入ったので、手術が遅れます」と告げた。
ようやく呼ばれ、手術室に入る。
医師と看護師、そして私のわずか三人だけの静かな空間だった。
左腕にルートを取られ、足を固定される。
時計を見て「13時か……」と思った。
そして、看護師に促され、一緒にカウントダウンを始めた。
「10、9、8……」
次に目を覚ましたとき、時計の針はほんの10分ほどしか進んでいなかった。
「あれ、もう終わったの?」
カウントダウンした時にいた医師の姿はもうない。
全身を確認すると、手術室に入る前に渡したナプキン付きの下着を履いていることに気づいた。
手術は終わったのだ。
車椅子に乗せられて回復室へ戻る途中、私はただぼんやりと天井を眺めていた。
部屋に一人で残されると、ようやく「終わったんだ」と実感が湧いてきた。
点滴の管が手に刺さり、起き上がるとまだ少しふらつく。
静かに横たわりながら、妊娠検査薬の陽性反応を見たときの喜びや、悪阻で苦しんだ1ヶ月の日々を思い返した。
それらは、あっけなく過去のものになってしまった。
「頑張ってもダメじゃん!夢に向かって、頑張ってもダメじゃん!!」
心の中で叫んだ。
せっかく意を決して、家族5人になる夢を叶えるために進んできたのに。
この妊娠は流産という悲しい現実だけでなく、「癌になる可能性」も私にもたらした。
妊娠が癌に近づく病気の入り口になるなんて、考えもしなかった。
ふと腕を見ると、点滴の液体が流れていないことに気づいた。
点滴バックを見上げると、液体の流れはすっかり止まっている。
その時。
遠くから赤ちゃんの泣き声が聞こえた。
「ほぎゃー、ほぎゃー!」
おぎゃーなのか、ほぎゃーなのか、ほわーなのか——どんな響きかは分からない。
ただ、その声が新しい命の誕生を告げるものだとすぐに分かった。
「あぁ、私が、もう一度聞きたかった声だ……」
涙が頬を伝った。
8ヶ月後にはこの産声が聞けるはずだったのに、私のお腹にはもう赤ちゃんはいない。
しばらくして、遠くの足音が近づき、再び遠ざかる。泣き声も次第に聞こえなくなり、やがて静寂が戻った。赤ちゃんは、新生児室に移ったのだろう。
「あぁ、また急にお産が入ったんだな。」
私の赤ちゃんがいなくなった日に、生まれる命がある。
もしかしたら、長男や次男が生まれた時に、同じような想いをしていた人がいたのかもしれない。
どこかで「妊娠したら、必ず赤ちゃんに会える」と思い込んでいた自分に気づく。
妊娠はゴールではなく、まだまだ中間地点。
妊娠すること、そしてお腹で育って生まれることは、当たり前じゃなかったんだ。
静寂の中でぼんやりと思った。
今回の赤ちゃんは残念なことになってしまった。
でも、私には二人の息子がいる。
生まれてきてくれた息子たちは、まさに奇跡だったのだと、気づいた。
結婚当初描いた夢は「家族5人」だった。
だけど、今の私は、優しい夫と可愛い二人の子どもたちがいる。
それに、これまでの努力や経験——私はこんなにたくさんのものを持っている。
描いていた夢とは違うかもしれない。
でも、もしかしたら、私は何かを追い求めすぎているのかもしれない。
「何かを追い求めていたのは、なんのため?」
頭の中に問いが立つ。
「それは…それが幸せだと思っていたから。
私は、幸せになりたかったんだ。」
そして、そこで気づいた。
「ところで、幸せって、何だろう?」
当たり前すぎて一度も考えたことのなかった問いが、私の中に静かに浮かび上がった。