ある冬の日のカーテン
街路樹の葉がようやく紅葉して舞い落ちている。まだパーカー一枚羽織っただけで十分な気温に疑問を感じながらも午後五時には空が真っ暗になるから、【やはり冬なんだなあ】と実感するにはそれだけで、いいようなよくないようなで迷ってしまう。落ち葉の葉一枚一枚の葉脈だけ荼毘に付した後の骨のようにまばらに残っている。それがまるで黄色いレースのカーテンのように歩道に敷きつめられているので、私はふと、このカーテンを開けて地球の窓から世界を覗いてみたい衝動にかられる。もしかしたら日本の裏側が覗けるかもしれないし、地下世界がひろがっているかもしれないし、宇宙空間につながっているかもしれないし、マグマの飛沫が見えるかもしれないし、地下の水道管が見えるかもしれないし、ガス管が見えるかもしれないし、ただのアスファルトが窓を塞いでいるかもしれない。だんだん、つまらなくなっていく想像に肩を少し、落とす。私の足は地についていて、どうしても飛翔できないのだ。と、上から枝が降ってきた。体に当たりはしなかったが、びっくりして見上げると、街路樹の枝を剪定している最中のおじさんとおにいさんと、警備員のおにいさんが、驚いた私へにまにまと笑っていた。頭に来たけれど、横に積み上げられている、透明で青い香りをする木の枝々に慰められた気になって、笑った。そうすると木の上のおじさんが小さく会釈してくれた。警備員のおにいさんは、それでもにまにま笑っていた。合間にも私達の脇を何の気なしに通り過ぎてゆく人々が、ある人は香水をある人は汗の匂いをある人はメンスの香りさえさせて気にした風でもなく通り過ぎてゆく。なんの、私も似たようなものだし、人の匂いには慣れている。ただ、木々の香りは、また格別なものがある。自然の生き物は、常に命の危険と隣合わせだが、その緊張を解きほぐすものがあるのもまた、自然の内にあるのだから、人間が思うほど自然の動物というのはストレスを感じていないのではないのか。昔の人間だってそうだろうと、思うそばから、地面に敷かれたレースのカーテンを箒でさっささっさと掃いてゆくおじさんと、目が合って、思わず挨拶をしたら、おじさんの目がきらきらと黒い瞳の中で黒真珠のような光沢でまたたいて、まぶしくて、思わず、おじさんの瞳でネックレスを作りたくなってしまった。猟奇的だろうか。おじさんが掃き終わった、箒の跡筋は、葉脈のレースのカーテンがついに川に沈み波打っているようだった。どこまでも人の手を入れないと保たれなくなってしまった自然というものを考えてみると、そもそもが自然と人間を分けて考えていることに無理があるのではないか、とも思うけれど、自然環境を人口的に変化させておきながら便利になったはずの不自然な世界にどうしても自然を求めている自分と、不自然さに適応できずに溜息ばかりついている自分と、けれども便利さを求めている自分とがばっらばっらに散らばって、私は風に散っていく自我を見つめた。地面には私の心の葉脈がレースのカーテンのように敷かれていた。おじさんにこのカーテンを川に沈めてもらおうかとも思ったが、うっすらとカーテンの隙間から射す光を頼りに、この冬を乗り切ろうと決めた。