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かっこつけない茶道をしていきたい

「お茶はおいしくて楽しいのだ」と思ったのは、今から10年ほど前のこと。それは、あるお茶屋さんで行われていた「茶遊会」というイベントにふらりと参加したことがきっかけでした。このイベントは、500円の参加費で、月ごとにさまざまな趣向であらゆる角度からお茶を楽しませてくれる夢のような企画。そこで出される煎茶も抹茶もお菓子もおいしくて、茶という身近な存在がこんなにも懐深く楽しむをもたらしてくれるものだと驚きました。

そんな楽しかった経験から、和菓子屋に勤めたり、茶道のお稽古に通ったり、見事に「お茶の世界」にハマっていきました。今でも変わらずお茶と関わることをしています。

でも、たまに、茶道って疲れるなぁということもあります。

茶道って、ランク付けをするところがあるんですよね。相手はどれほど経験があるのか、どんなお道具を使ってるか、お点前はどうか、着物は何か。いろんな面で格付けがあり、そういう外側の部分はわかりやすいので、そんなメガネで見てしまいがち。そういう「側の部分」ばかりの会話が多いと、正直疲れてしまう。

自分が最初に感じた楽しみは、もっと本来の、心が豊かになるものだったはずだよなー。そんなことを思い、今回はつれづれとお茶のことを書いてみます。

そもそも利休は何を目指していたのか

茶道といえば、利休さん。

そもそも茶道を大成した利休は、どんな世界を茶で表現したいと思っていたのでしょうか。自分のようなものがここにサクッと書くことではありませんが、いくつかの本を読むと、利休が成し遂げたかったことが浮かび上がってきます。

お茶というものは、元来、非常に自由な、あるときには奔放自在なものでして、利休あたりのお茶の理想というものは、階級打破にあったようです。つまり、お茶というものは、お香やお花などと同じく、仏様にお供えした、お供え物であるお茶のお流れを人々がいただくわけですから、元来、仏教の精神にのっとったものでして、したがって、お釈迦様が階級というものには全然関係なく、万人をもれなく済度するように、大慈悲の精神に基づいたものが、元来茶道の精神にあらねばならないはずです。利休さんは、それにのっとって、それまでは、ややもすれば、階級的な意識のあったお茶というものを平等に改革したわけです。

「茶道の歴史」 桑田忠親

桑田さんの本によると、利休は茶道で階級を打破しようとしたのではと書いてあります。その理由として、それまで階級によって分けられていた茶室の入口や雪隠を統一させたことを挙げています。

それまでは階級が高い大名は、貴人口 きにんぐちから入り、それ以外は躙口 にじりぐちから入るのが普通だったんですね。それをすべての人が、頭をさげる躙口から入るように変えてしまう。このことを「単なるお茶室の入口のことですけれども、人間に対して、そういう階級と差別をつけなくしたのです。」と解説しています。

その改革だけで利休の理想は語れないとは思いますが、ただ、利休が生きた時代背景を考えるとたしかに理解はできます。

世の中が無法時代、無秩序の時代であればこそ、そこに何か平和的なものを求める人々の願望、つまりは、しっかりした茶道の規格とか、精神とかいうような目標が生まれてくるわけで、その目標をたてたのが、利休だったのです。 (中略)
利休の茶道の本当の理想は、乱世でありながらも、そこに世間の無秩序な状態に抵抗して、お茶の世界だけの、一つの平和な秩序をたてようということにあったのです。

「茶道の歴史」 桑田忠親

また、利休は、珠光 しゅこうという僧を、心から称賛していたと言います。珠光のどんな面を信奉していたのでしょうか。

利休が知った珠光の茶の湯は、名物道具を所持してのものではなく、茶碗を使ったものであり、その草庵も立派なものではなく、また茶の湯が仏教と一体になった遁世者の質素な生活のなかではじまった、というものだったろう。利休はそれを町人の都市生活のなかで再生させようとしたのである

「千利休のわびとは何か」 神津朝夫

ここに出てくる「遁世者」(俗世間を逃れた人)。もともと日本では、この「遁世者」という存在を、非常に憧れの目でもって見てきたようです。時代は遡りますが、和歌の世界でも、西行、鴨長明、吉田兼好などの遁世者が非常に尊ばれました。

「きったはった」の政治の世界。秀吉という最も気の抜けない存在がつねに隣にいた利休にとって、俗世間から離れた存在である遁世者に憧れを抱いた気持ちもなんとなくわかります。利休は、権力の真っ只中にいながらにして、そういった俗の有象無象から一歩離れて、お茶に自分の理想を体現しようとしていたのでしょうか。

利休が藤原家隆の歌「 花をのみ 待つらんひとに 山里の 雪間の草の 春を見せばや」をつねに口ずさんでいたという伝承は、こうした利休の茶の湯を考えた時、あるいは正しいのかもしれない。花(名物)ではないものに利休は茶の湯の核心を求めていたのである

「千利休のわびとは何か」 神津朝夫

以後、格式化されてきた茶道

けれど、利休は道半ばでこの世を去ります。それには天下の統一というのが関係しているようです。

利休の処罰の原因については、いろいろ取り沙汰されておりますけれど、大きくいえば、秀吉が天下を平定して、封建的な社会秩序をつくると同時に、堺の一介の町人である御茶頭の千利休の行動が分に過ぎた振舞いと思われるようになったからです。そして、三千石の知行も、茶人としては多すぎるし、茶の湯の名人とか、天下一なんていうのも、もっての外だ、ということになった。
つまり、今まで利休が持っていた茶人としての階級打破の権威というものが否定されてしまったわけです。それで、彼は切腹を仰せつかった。

「茶道の歴史」 桑田忠親

下剋上の世は終わり、身分制度が確立されると、残念ながら利休のような町人でありながら政治にも存在感を持つ存在は危険になってしまったのでしょう。

この利休の死以後、世の中の体制とともに、お茶の形も変わるのです。身分を超えた自由な場であったお茶は、身分に合わせた封建的なお茶へと変化します。

江戸時代になると、封建制度に合わせて思想も変化。「お茶の思想も、徳川幕府の政治理念にあわせて、仏教的な茶道観から、儒教的な茶道観にすりかえられていきます。」とも書いてあります。

そして、この頃から段々と家元・宗匠という枠組みができてきたようですね。1757年の「不白筆記」という書物に、初めて「家元」という言葉が使われます。

お茶のほうでも、それにならって格式化されました。こういう時世に町人社会でのお茶を盛んにするには、家元制度をつくって、武家社会の大名茶に対応しなければならない。つまり、大名の御茶頭になるにも、千家の家元の宗匠か、宗匠の息子でなければいけないとか、あるいは高弟でなければいけないとか、そういった格式を立てることによって茶人の勢力を扶植することができたのです。

「茶道の歴史」 桑田忠親

許状など、家元制度にはいろいろ感じることもありますが、お茶を継承させるには仕方がないことだったのでしょう。茶は武家にルーツがあり、大名家に茶を教授できるのは宗匠であるというステイタスがあったからこそ、今の茶道の地位があるのです。

体系化で失われた作意性

利休の時代から江戸時代への変遷を見てきました。ここで、利休が重視していた茶の湯の本質的な要素に立ち返ってみます。

利休や宗二が茶の湯で何よりも重視していたのは、茶の湯で新たな「作意」を発揮することだった。それを名物道具の使用よりも上に置いたのである。
つまり、当時の茶の湯では、人と違う茶の湯をすること、自分の茶の湯をも次々と新たに変えていくこと、が重視されたのである。(中略)

実際、乱世を生きていた武家や町人は、今までと同じことをしていては衰退と滅亡しかなく、つねに常識や先例にとらわれない新たな発想が求められていた。それがなければ、生き抜くことができない時代だったのである。林下の大徳寺派には引き継がれていた溌剌とした禅の発想に、利休や宗二は共感したのだろう。

「茶道の歴史」 神津朝夫

「作意」の重視。形式や伝統の継承に重きを置く現代の茶道とは大きく異なるようにも思えます。格式化は、体系も、思想も、そして茶の湯の本質さえも変えてしまったようですね。

ところで、現代の教室がこと細かく教えている点前ですが、時代考証をすると利休の頃の点前と大幅に変わっています。たとえば、茶碗の正面を避けてのむこともやたらと言われますが、これは近代からできた所作とのこと。

茶碗の正面をさける謙虚さが茶道精神である、などと大真面目に論じる人がいるが、歴史を知らない茶道論であった。松尾流は今も茶碗の正面から飲み、茶碗を回さずに亭主に戻すが、これは古法を残すものであって、謙虚さが足りないということではない。

「茶道の歴史」 神津朝夫

このように、現代当たり前のように教えられている点前も、近代になってから生まれたものも少なくないようです。さらに興味深いのは、これらの作法に後付けで精神論が加えられ、あたかも古くからの伝統であるかのように語られていることですね。(型を否定しているわけではないので、あしからず)

型を学ぶことも重要ですが、学術的な背景や知識もあわせて学ぶことで、改めて自分がどういう茶の湯をしたいのか、あるいはしたくないのかがわかるような気がします。そして、わかりやすい外側の部分にのみに注意せずに、茶の湯の本質に立ち返って、捉え直す必要もきている時なのだと思います。

ただ深く楽しむために、茶の湯をするだけ

今回は、歴史学者の桑田さん、日本文化研究家の神津さんのいくつかの書籍を中心に紹介しました。流派の本以外を読むと、茶の湯の別の側面がわかって面白いですよね。

「本質はどこにあるのだろう」という探求は、より深く楽しむことと繋がります。ちょっと茶道とは異なりますが、哲学者の國分功一郎さんの言葉をここで引用します。

楽しむためには訓練が必要なのだった。その訓練は物を受け取る能力を拡張する。これは、思考を強制するものを受け取る訓練となる。人は楽しみ、楽しむことを学びながら、ものを考えることができるようになっていくのだ。

「暇と退屈の倫理学」 國分功一郎

つい外側に注目した意見に惑わされてしまうこともありますが、自分の場合は、人に見せるための茶道ではなく、ただ深く楽しむために茶の湯をしていきたいなぁ、そんなふうに思ってます。


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