髪は頭を地球に引っ張り続ける
伸ばしていた髪を切った。重力から解放されて「自由だー!」と思った。PIXARのアニメーションの「カーズ」で主人公のライトニング・マックィーンが足かせから解放されて「自由だー!」と叫んだ声が頭の中で再生され、雲ひとつない青い空と広い大地の映像が浮かんだ。そんな大げさなと思うかもしれないが、ここ半年間、重たい髪の毛を四六時中ぶら下げて、肩こりと戦い頭痛を葛根湯で紛らわせながら生活していたのだ。なんでそんなにしてまで髪を伸ばしていたかというと、髪の毛を医療用ウィッグの原料として寄付するのにチャレンジしてみたからだ。
髪の毛を寄付するヤツ、あったよね?
髪の毛を医療用ウィッグに寄付することを「ヘアードネーション」というらしい。以前から、テレビなどで見かけて知ってはいたのだが、結構な長さ、調べてみたら31センチ以上が必要で、提供できるほど長く伸ばすのはとてもじゃないけど無理だと思っていた。ところが、一方で子どもの頃理髪店で散髪した時に「この髪の毛アデランスにしてもいい?」と言われて50円ほど安くしてもらった経験があり、その時には31センチもなかったと思うので、男性用なら短くても良かったのか、あるいはお店の人のリップサービスだったのか、はたまた幻だったのかしらとも思った。どちらにしても自分とは関係なさそうなので、それ以上調べたり考えたりすることはなく判断済みの案件として片付けていた。
ひょっとして、もうちょっと伸ばすとできるかもしれない?
それじゃ、なんで伸ばすことにしたかというと、実は更年期で髪の毛が少なくなってきたから、以前より多少長くしても我慢できるようになったのだ。そのことに気づいたのが半年前くらいで、これはひょっとして寄付できる長さまでいけるかもしれないと考えた。今までできないと諦めていたことができるかもしれないとなると俄然やる気が出るもので、私としては随分頑張った。まず、風呂に入る時髪の毛を頭の上にまとめておくのが難しくなってきた。前は髪ゴム一つで簡単にできたのに、結んだ上でクリップでとめておかないとずり落ちてしまうようになってそのうちクリップ一つでは足りなくなってきた。頭を洗うのは特に大変だった。髪の毛が水を含むし、シャワーの水流で下方向に力はかかるし、それを首で支えるのだからどれだけの力がかかっているのか計測できないもんだろうかと思ったりした。ラプンツェルとか初音ミクとか平安時代の姫とかどんだけ首の筋肉が強いんだろうか。そして、ある日もうこれ以上自分で頭を洗いたくないと思ったので、切りに行くことにした。
ネットで検索すると、ヘアドネーション失敗談が色々出て来たので、対応している美容室を探すことにした。こんなに頑張ったのに失敗するのは嫌だったからだ。髪の毛をいくつかの束に分けてゴムで束ねて切るなど、切り方のルールがあって、自分で失敗せずにできる自信はない。それに、対応しているお店からまとめて送ってもらった方が効率的だというのもある。特に注意することは完全に乾いた髪の毛でないと受け付けてもらえないということだ。カビてしまったりするのだそうだ。梅雨に入り髪を洗った後なかなか乾かない時もあるし、雨などに濡れないように気を遣わなければならない。池袋や新宿、あるいは自由が丘とか吉祥寺などに行かないとないかと思っていたら、幸いにも自転車で行ける距離にあったので、電話で問い合わせて予約して行った。
やっぱりプロに任せて正解だった
自転車で10分ほどの場所にあるその美容室はヘッドスパが専門とあったので最初は高級な雰囲気のお店なのかもと恐る恐るドアを開けたのだが、意外とフレンドリーというか家族的な感じだった。ヘアドネーションに積極的に対応してくれるお店で、丁寧に説明してくれて寄付する髪の毛を切った後のヘアスタイルの相談にものってくれた。私はこの長くて重い髪を寄付するというゴールに向かっていたのだが、美容師さんはゴールの先には短い髪と毎日付き合わなければならない日常が待っていることを知っているのだ。ここで、突然の雷鳴とともに雨が降ってきた。前述の通り乾いた髪の毛でなければいけないので、雨が降る前に来ることができて良かった。「仕事は下を向いた作業が多いか」「髪を洗うのは朝か夜か」色々聞かれて普段の生活に馴染むようなヘアスタイルを時間をかけてアドバイスしてくれた。何しろ、こちらは久しぶりに髪が短くなるのだから、短い髪の扱いに慣れていない。
そうこうするうち、ようやく毛束を4つに分けてゴムで束ねていよいよ切ることになった。周りにいる他の店員さんがハサミを入れるところを動画で撮ってくれたりして気分を盛り上げてくれた。切った瞬間今まで後ろに引っ張られていたのがなくなって、少しだがスカッとバランスが崩れる感覚もあった。カットしてもらったらすでに髪が曲がって膨らんだ感じになってきたので、結局ストレートパーマをかけてもらった。長い時は自重である程度伸びているが、短くなるとくるくる曲がってしまうものだ。そして、お店に入って3時間後にはスルスルの気持ちいいストレートヘアが出来上がり、途中降り出した雷雨もすっかり上がった。寄付する髪の毛は美容室がまとめて送ってくれるので、自分で梱包したり郵便局行ったりしないで済んだのも良かった。頭も気持ちも身軽になって帰ることができ、踏み込む自転車のペダルも軽く感じた。
さて、これだけ重く感じていた髪の毛だが、どのくらいの量だったかというとたった107gだったことを付け加えておく。
この達成感と開放感をもたらしたものは…
更年期ってヤツは、女性ホルモンが減って色々不具合が起こるというなんだか寂しくなっちゃうようなイメージだし、テレビや身の回りの年上の人から鬱陶しいもの、仕方のないものとして色々脅されていたので、ちょっと迎えるのが怖いと身構えていたのだが、自分に起こる変化で今までできなかったことができてしまうのは面白い。そういえば、私は安定に飽きやすい性質だったことを思い出したので、色々と変化がある更年期も悪くないなと思った。これから更年期を迎える人には怖いばかりじゃないことを伝えたい。