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逃げるより、活かして生きられたら。

こんばんは。有紀佑です。

今週日曜日にstand.FMにて『有紀佑のあとがき』というチャンネルでラジオを投稿しました。これから毎週日曜日に投稿していく予定なので、良ければ聴いてみてください。チャンネルのリンクを貼っておきます。

宣伝も済ませたところで。
今日もよければ最後までお付き合いください。

今回はstandFMでした話に少し関連することを書こうと思います。


あなたの周りには『天才』と呼ばれる人はいるでしょうか。


この質問で、はい、と答える人は多いんじゃないかと思います。

別にオリンピック選手並にスポーツができるとか、プロ並に楽器演奏ができるとか、そういうのじゃなくてもいいんです。
例えば、友達をつくる天才とか、アイデアを形にする天才とか。

人によって『天才』と定義する人間の度合いは異なりますが、わたしにとって、天才の定義は『自分より才能がある人全て』です。

具体的に説明していきます。

絵が上手くないわたしにとって、わたしよりも絵が上手い人たちはみんな天才です。
運動が苦手なわたしにとって、わたしよりも運動ができる人たちはみんな天才です。

だから、画家として仕事をされている方もプロスポーツ選手も天才、絵が上手い友達も走るのが早いクラスメイトもわたしにとっては天才です。

友達づくりが苦手だったわたしにとって、友達が多い人はそれだけでコミュニケーションの天才です。
相手がいくら自身を『天才』として自認していなかったとしても、わたしにとってその相手は天才と判断されます。

『天才』の定義は曖昧で、一人称視点、自分視点からしか判断できないと思っています。


わたしは人の輪の中に入るのが苦手だったので、子どもの頃から何も喋らず、周りを観察して、会話に聞き耳を立てる癖がついていました。その結果、側から見て、その人がどんな天才なのかがよく見えるようになりました。
観察していて、「この子は気配りがすごい」とか、「この子は発言力がある」とか。
そういう周りの『天才』を見つけていくうちに、自分にはそういうものが、周りと比べて何もないことに気がつきました。

わたしは天才じゃないです。
突出した才能もありません。いつも上には上がいます。自分が何か「この才能があるかも」と思っても、すぐその才能の天才を見つけてしまって、その度に「お前は天才じゃない、才能ないぞ」って突きつけられている感覚になります。だから、その路線をやめて新天地へ逃げてまた天才に出会って、逃げてを繰り返していました。

自己肯定感が低い自覚はあります。でも別に自分のことが嫌いってわけじゃないです。そこは安心してもらえたら。

全員天才に見える世界で生きるわたしにとって一番キツイのは、自分がもっとも努力しているところで天才に出会ってしまったときです。


中学のとき、美術部で絵を頑張ろうと思ったとき、絵が上手い天才に出会いました。後輩の女の子で絵も上手くて、字も綺麗で、性格も穏やかな子でした。わたしは別の方向で頑張ろうと思い、一枚絵を諦めてストーリーと組み合わせて絵を描くスタイルにシフトチェンジしました。それなら頑張れると思っていたし、周りにはあんまり物語を書いている人がいなかったので、天才にわたしも入れると思いました。

高校のとき、演劇部で演劇を頑張ろうと思いました。脚本も役者も頑張りたいと思いました。
でも、当然ここにも天才がいました。声量が大きくてよく声が通る子、演技経験があって表現力豊かな子。この2人とわたしの3人の演劇部はわたしにとって苦しいものでした。2人が役者としての天才なら、わたしは脚本を極めようと努力しましたが、夏の大会用に書いた初めての長編脚本も、最後の大会の脚本も、引退した先輩の脚本が選ばれました。先輩はわたしにとって脚本の天才でした。同期の2人は人に好かれる天才でもあり、友達も多く、後輩にも好かれていて。不器用なわたしには全て羨ましい才能でした。

大学のとき、天才ばかりがいる演劇部で出来なかったことを自分でやりたいと思って、劇団サークルを作りました。新しい名前を作って、新しい自分としてなんとか天才になろうと努力することに決めました。でも、そこにも、いろんな天才がいて。自分がいてもいなくても成り立ってしまう環境で必死にもがきました。結局、天才にはなりきれないまま。それでも周りの天才の協力で楽しい演劇が出来たので、結果オーライだったのかもしれません。どこに逃げても天才にぶち当たるのはメンタルをゴリゴリ削られましたが。

あと、学部の性質上かもしれませんが、周りの同期で劇団を作った人が多くて、周りの団体のクオリティの高さに、正直すごく嫉妬していました。周りも天才だらけで、なんとか負けないように工夫を凝らして溺れないように、埋もれないように頑張りました。

社会人になり、ありがたいことにいろんな縁で初めましての人と演劇をする機会に恵まれて、またいろんな天才に出会いました。演技も脚本も演出も。今まで自分がしてきたことの、さらに上にいる天才たちばかりで。出会うその度に羨ましい気持ちと恨めしい気持ちを抱えて、それでも今こうして何か爪痕を残せないかと、もがいてnoteを書いたり、standFMを始めてみたり。でも結局はそこも天才たちの通った跡を辿っているだけに過ぎないと分かっているのです。


こうして天才と会うたびに悔しい気持ちになって、それでも何か自分にも秀でるものがあるんじゃないかと思って努力したり、方向性を変えたりしてもがいてきました。

でも、もがいた先にも天才がいて。
結論としてたどり着いたのは、どこに逃げてもわたしは結局何の天才にもなれないということでした。

わたしは負けず嫌いなので、天才に会うたび、なんだか負けた気がして、悔しくて羨ましくて、なんとか別のところで1番になって乗り越えようと考えて行動するのですが、こう何度も何度も天才の壁にぶつかると流石に無理だというのが分かってきます。

だから、言い方はあれですが、むしろ天才たちを利用してやろうという気持ちで行くことに最近はしています。
天才たちの才能を見て、技術を盗んで、まずは外見だけでも天才に寄せてやろうと。
持ち前の聞き耳を立てる癖と、観察する癖を存分に活かしてやろうと。
天才たちと友達になって、才能を借りることが出来れば、自分だけでは成し得なかった理想も叶えてもらえるかもしれないと。

そうすれば、極論ですが、わたしにも才能があるのと外から見たら変わらない状況になるわけです。
負けず嫌いで嫉妬して反発しても、自分の身にならないし、心がしんどいことにようやく最近気が付きました。
でも、天才たちを素直に尊敬して、協力してもらって、刺激をもらっていけば、わたしからすれば、大成長のチャンスになるわけです。

天才たちにはわたしの養分になっていただきましょう、、、グヘヘ


人の性格というのはそんなにすぐには変わらないと思います。なので、今でも天才たちを目の当たりにするたびに、悔しいし、嫉妬するし、羨ましくてたまらない気持ちになります。

この歳になって、年下の天才が増えてきて、それをより感じています。ほんとにすごい。わたしより若いのにすごくならないでほしい……。全員に置いて行かれている気持ちになって心が苦しくなります。

ただ、この嫉妬心を本人たちにぶつけてやろうという気持ちは全くありません。昔からそういう気持ちはちゃんと自分の中で消化して飲み込んできたし、単純にほんとに尊敬してるし、大好きな友達なので。
消化不良の苦しさは全部、これから書く脚本にぶつけるつもりです。なんなら、天才たちの才能を余すところなく発揮させる脚本をいつか書いてみせますとも……!!

そのときは、『活かす天才』と名乗ってもいいかもしれませんね。


なーんちゃって笑

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