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盗みを全くしなくなったとき、欲するものはやってくる

「人のモノを盗んではいけません」というのは、皆が小さい時から言われていることだし、どんな宗教においても戒められていることです。

多くの人は「自分は人のモノも人も盗っていないし、盗みとは関係ない」と思っているかもしれません。

でも盗んではならないのは、決して目に見える物質的なものだけではなく、情緒的にもメンタル的にも盗みをしないことなのです。

37 盗みを全く犯さなくなったとき、ヨギは欲するものを何でも得ることができる。
・・・・熱誠家は何も奪わない。愛や好意のような情緒的な恩恵、そして嫌悪や憎悪さえも要求することはなく、それが自分のものでないときに吸収することもない。知的な利益、不当な名声の要求、誰か他の人の義務の横取りをすることはなく、好意や評判などもすべて同じように拒絶し、自分自身のものだけで満足する。
「各人に自分自身のダルマを行なわせ」、その人自身の役割を果たさせなさい、というのが東洋での命令である。

「魂の光 パダンジャリのラージャ・ヨガ経典」アリス・ベイリー著


人間は生きているだけで、人から認めてもらいたいとか、好きになって欲しいという自然な感情から、色々な盗みを働いています。

また、会社などで働いていると、上司が部下の手柄を横取りし、部下がフラストレーションを抱えるということもよくあります。


このように分かりやすい盗みとは反対に、一見盗みたくないように思える「嫌悪や憎悪」を要求したり「誰か他の人の義務」を横取りしてはならないというのは、「盗み」の意識がないだけに気をつけなければならないところです。

例えば、相手に嫌悪や憎悪の念を抱かせるような言動は、相手のアテンションを盗ろうとしてエネルギーを奪っていることですよね。


また、いつもお会いするチベット仏教の僧侶は、「その人が自分の人生においてやるべき修行の機会を奪ってはいけない」とおっしゃり、ご相談においても危険の可能性がない限り、必要以上のアドバイスはしないとのことでした。

それがたとえ辛い結果になっても、自分が実際に経験して自分で何かに気づくべきことなら、他人がその機会を盗ってはならないのですね。


昨年末、94歳になる母が高齢者施設に入居した際にも、「もしかしたら妹ともっと協力して、まだ家で暮らす選択肢もあったかもしれない」と私が話すと、僧侶は「いいんですよ。親といえども、子どもの時間を盗ってはならないのですから」と優しく微笑んでくださいました。


何も盗むことなく、ただひたすらに自分の責任と役割りを全うして生きることは難しいけれど、それができたとき、宇宙はご褒美を用意してくれているようです。

熱誠家が「分離した自己のために何も求めなく」なったとき、彼に宇宙の富を託せるようになる。低位性質のために何も要求せず、三重の肉体人間のために何も主張しないとき、欲するものはすべて、求めたり主張したりしなくても彼のもとにやってくる。「すべての宝石が彼のものになる」

「魂の光 パダンジャリのラージャ・ヨガ経典」アリス・ベイリー著

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