両親の別居を経て
https://note.com/yukiyo1090/n/n226ca720bbfa の続き
一般的に、父親と母親はセットで考える。それもそのはず、お父さんとお母さんがいなかったら、私は存在していないのだから。
その両親が、別居を決めた。私は、賛成だった。「その方が自然だ」と思ったから。
でも、そのことで友達や大人たちからどう思われるかを考えると、少し不安になった。というか、「かわいそう」と思われたくなかった。そこで私は、父が家を出ていった翌日、友達に【両親別居報告】をした。
友達らは、「大丈夫?」と心配してくれつつも「まぁ、それが一番いいんやろ?」と私の胸中をわかってくれていた。友達サイコー!!
さて、ものごとをいちいち論理立てで考える癖のある私は、「じゃあ、この別居が意味するものは?」と理由づけするかのように、日常の行動をチェックし始めた。
あんなにやせ細って死ぬんじゃないかしらと思うほどだった母は、ふっくらし始め血色も良くなっていた。
私は、より楽器に打ち込むようになった。高2の9月に音楽大学という学校の存在を知り、受験をしようと決めたのだ。当時できたばかりのセミナールームという小屋のようなところで、毎朝、家を早く出て練習し、それから学校の一日が始まった。ものすごく集中していたし楽しかった。
ただ、この頃から、「寂しい」というフレーズは禁句のようになっていた。理由は自分でも気がついていなかったが、寂しさや悲しさを感じないように、練習に打ち込んでいたのかもしれない。
音楽大学の受験に、母は反対だった。金銭的な理由だ。それを「楽器ばかりやって、指を大怪我して演奏家になれなかったらどうするの?」などと、筋の曲がったことを言って諦めさせようとする。
これにブチ切れた私は、金銭的困難を理解していたにも関わらず、「子どもの夢を叶えるのが親の役目じゃないの!」などと、今考えるとかなり自分勝手な意見を正々堂々大声で泣きながら言い放ったのだ。そんな親の役目なんてどこにもないと思うのだが。。
あまりに不憫に思ったのか、妹の「私が高校卒業したら働くから」との発言まで飛び出した!情熱があれば、協力者が現れる!!かなり強引だが、イケそうな気がしてきた!その後、隠れて私は父に電話をし、「お母さんが受験させてくれない」などと適当な言い回しで泣きついた。
「子どものしたいこともさせてやれん親がどこにおるか!」と怒鳴り口調で、今度は父が母に電話で説教をした。母は父に、慰謝料も養育費も請求していなかったので、おおよそ全ての生活費や学費などは、これまで母が負担していた。つまり、父は当初、金銭的援助はほぼしていなかった。なのに、この調子である。私の威勢の良さは、親父ゆずりか。
説教された母は泣きながら「そんなこと言われたって、ないもんはない!」と現実的に考えて厳しいことを訴えた。横で聞いてた私も半ば諦めかけていた。しかし、ここで父が動いた!
「学費は俺がなんとかする!」
ヤッター!!!やっほー!!!やっほほーーーーい!!!
父の手を借りたくなかった母は、やや不機嫌であったが、「国公立でないとダメ!」と金銭的困難を更にアピールしてきた。そのおかげで、私も更に気合を入れて練習に取り組めるようになった。神様ありがとう!!!
後に母は、「あの時、あんたがお父さんに電話してなかったら、あんたの今の仕事は無いねぇ」と言っていた。間接的だが、父と母が協力してくれたことは、今考えてみても私にとって最高の幸せだった。本当に感謝している。
一緒に住んでいたら、磁石の同極のようにスーッとすれ違った夫婦が、別々に住んでみたことで、見えない協力関係を生みだしたのだ。
見えてる部分だけで語れない世界が存在することを体感した貴重なできごとだった。
そしてまた、考えてしまうのだ。
「私はこれを体験するためにここに生まれたんだ」
体験を積み重ねていくと、地球に来た理由にたどり着けるのかもしれない。そんなことをうっすら思いながら、現実と自分の内なる声との間を行ったり来たり。
地球に来た真の理由にせまるため、まだまだいろんなことが起きるのだ。
つづく